哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2021年4月の読書のこと「王の庭師」

■王の庭師(ナディア・アーレンベルク(著)久利生杏奈(訳)/紅龍堂書店)のこと

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本八幡屋上古本市

 『王の庭師(原題:Der Gärtner des Königs)』の版元であり、また翻訳を担当された紅龍堂書店の久利生杏奈さんと初めてお目にかかったのは、2021年3月20日(土)本八幡屋上古本市に仇櫻堂として出店した際のことである。いや、お目にかかった際はクリュードーなる屋号のオンラインの某かの書店で、ということを聞きとるのがやっとであった。後日、ご丁寧にTwitterを通してご挨拶を下さり、Webページを拝見して、どんな活動をされている方なのかを知った。

 失踪したおじいさまの留守を守り、書店(版元)を営みつつ、文筆や翻訳をなさり、それに加えて畑もなさっているそうである。多才だ。そんなご縁で興味を持ち、(近いうちに紙の本になる予定とのことであるが、)今のところKindle版のみという本書を拝読したので、感想を記す。(以下、敬称略)

●作者ナディア・アーレンベルクのこと

 作者のナディア・アーレンベルクについて触れつつ、本書の紹介に入っていきたい。紅龍堂書店の公式ホームページによると、ナディアは6歳の時にアーレンベルク公国から、隣国のヴィッセン連合王国へ亡命したことが記されている。その姓名からは、本書のヒロインである、ソフィア・アーレンベルク(第37代アーレンベルク国王)と同じく、王家の血を引く方なのかと思うが、私がアーレンベルクの王族に詳しくないので詳細は不明である。キルブルク連邦がそうであるように、革命で王政を廃した結果、亡命せざるを得なくなったのかもしれない。

 ナディアについて、森林や動物の生態系、その近辺で生きる人間について、非常に造詣が深い人物である、ということは言える。本書で描かれるアーレンベルクの自然はおそらく、実際の自国をモデルとしているだろうから、そこで生まれた彼女が木々について詳しいのも、当然と言えば当然ではあるが。

 初めに彼女の知識、描写の巧みさを感じたのは「色素の薄い紺鳶色の瞳。ちょっと珍しいか。昔はもう少し濃い鳶色だったのだが、山暮らしが長かったせいで、紫外線に焼けて薄くなった。」という、部分である。何気ない描写であるが、そうか山で紫外線を浴び続けると、瞳の色が薄くなるのか、ということを初めて知った。言われてみれば、そういうこともあるだろうな、と思うのだが、自分が山を舞台にした物語を書こうとしたときに、そんなことに思い当たるべくもない。さすが、山や森林の中で生まれ育ったであろうナディアならではの、リアルな描写である。

 他にも、”ブナが広く樹冠を広げると、弱い個体に栄養を分け与えながら、ブナ以外の植物は締め出してしまうこと”や”発情期の牡の猪の肉は臭みが強いこと”、"猪や鹿、多くの獣は赤色を認識できないが、ヒグマは色を認識できること"そして”そのヒグマの特性、執念深さ”等々、本書は動植物に対する知識に満ちている。物語や登場人物が魅力的で楽しめることはもちろんのことだが、目の前の自然の愛おしさ、日本の環境保全における問題にも思い至れるように上手く構成されていて、勉強にもなる。

 そうそうヒグマと言えば、本書を読んでいて『羆嵐』(吉村昭/新潮社)を思い出した。三毛別羆事件という北海道で実際にあった熊害をドキュメンタリーとして描いた作品であるが、冬眠に入れずに腹を空かせた羆が人間を襲う様が描かれ、自身の獲物(人間の肉片)に対する執念深さを見せるシーンもあった。そういう点でも、本書が非常なリアリティを持っていることがわかる。

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『王の庭師』(ナディア・アーレンベルク著 久利生杏奈
訳/紅龍堂書店)を読了しました。とてもとてもおすすめ
です。日本からアーレンベルク国立森林大学に留学した、
森林職人(ルーヴェン)見習いのタツキが主人公、彼をは
じめ今、一人ぼっちだと感じている人がたくさん出てき
て、それぞれによりかかれる相手・場所を見つけていく
物語です。感心したのは非常にリアルな自然やそこに生
きる人々の描写、あなたも緑あふれるアーレンベルク公
国に遊びに行ってみませんか? ※私は本書を読み終え
ておもむろに土いじりを始めました。

●わからなかったこと

 本書の主人公は雨宮辰樹という、多分日本人である。多分というのは、彼の祖国が東洋にあり、天皇がいること。国民の多くが花粉症(枯草熱(こそうねつ)という呼称を私は初めて知った)に悩まされていること。祖国では植林した本数に従い国が助成金を出すため、森林組合長であった彼の祖父は、生育の早い針葉樹(杉)の植林と伐採を繰り返していたこと(この事情はキルブルク森林組合でも同様のようであるが)。それらは全て、私の住んでいる日本と同じ特徴であり、とはいえ本書の中で、タツキの祖国について具体的な呼称がないので、多分、としか言いようがない。

 ともあれ、わからなかったことはそこではない。アーレンベルク国王ソフィアの護衛官として登場するブリッツ、という人物についてだ。寡黙で猟犬の育成を趣味としているという彼は、アーレンベルクでは珍しい黒曜石のような瞳(ちなみにタツキの瞳は紺鳶色と描写され、これまたこの国では珍しいそうである)であり、ロレーヌと似た精霊信仰である神道を信じている、そして雨宮辰樹というタツキのフルネームから、彼の素性に真っ先に気がついたようであること、が記される。恐らくタツキと同じ祖国(日本?)の出身か非常に縁の深い人物なのではないか、と思う。彼の過去をもっと知りたい、続編があるなら掘り下げてもらいたい。

 もう一人、謎の人物はタイトルともなっている王の庭師(国家森林管理官)。初代アーレンベルク国王と彼の庭師であった女性についての物語が、少しだけ語られるけれど、その辺の昔話はもっと聞いてみたい、と感じた。

●わかったこと

 本書はアーレンベルク国立森林大学の留学生として森林職人(ルーヴェン)見習いをするタツキが、アーレンベルクと隣国であるキルブルク、ヴィッセンとの戦後50年を記念した友好事業(500年規模の大緑化事業)に参加する物語である。そのきっかけはタツキが、アーレンベルク国王ソフィアの飼い猫を助けたことであり、その物語の過程の中で、タツキもソフィアも、誰もが孤独を抱えていることがわかってくる。

 タツキは非常に優秀な学生でありながら、異国人であり、また顔に目立つ傷があることから、アーレンベルク人からの差別を受け、またそれを甘んじて受け入れてしまい、うまく自分を出すことができないでいる。そんな彼が人と繋がり、また人と人を繋げていく。彼は物語の序盤で、きれいな水場を都会まで繋げていって、都会に住む姉のところまで蛍が飛んでいくようにしたいと話しているが、彼が点と点を線に繋いだのは、蛍の水場ではなく、アーレンベルクで孤立している人々である。とても優しい物語である。

 余談だがこの蛍の話のときに、タツキが例として出したリスが木を伝って大陸のどこまでもいくという話、私は「僕らは奇跡でできている(フジテレビ・主演:高橋一生)」を思い出した。確か動物行動学を研究する主人公の一輝が、木と木を繫いでリスを移動させることに取り組んでいた覚えがある。

 閑話休題、少しネタバレになってしまうが、私が本書で最も感じ入ったのは「見えた? 蛍だと思った? きれいだった?」というタツキの姉、小春のセリフとそれに続く一連のやり取り、そして、「 あの夜、一緒に見られなかったものは、蛍ではない。 霧の向こうに瞬いた光は救難信号だった」云々、というシーンだ。物語の序盤からキーアイテムとして登場するヘッドライトの秘密もここでわかる。その後のハラハラするアクションシーンや、ソフィアとタツキとのキュンキュンするシーン、どれもが愛おしいが、一つ好きな箇所を選べと言われたら、私はこの姉弟のシーンに胸を打たれた。

●訳者久利生杏奈のこと

 先にも記した通り、 Webに出ている情報を見る限り、非常に多才な人物であることがうかがい知れる。また、先述の通り私は花粉症の呼称として、枯草熱というものを初めて知ったが、こうした言葉選びは、著者のナディアではなく、当然訳者の杏奈のものであろう。

 そういう耳馴染みのない日本語という点では、蒸気霧(けあらし)もそうである。水面に白く蒸気のように立ち込める霧のことだそうであるが、こうした単語を知らないのはたぶん私だけではない(と思いたい……。みんな知ってたらどうしよう……)。そういった、読者がパッと意味を把握できない(もちろん、字面からなんとなくの想像はつくが、)言葉の使用について、それがあまりに多すぎると、読みづらくなってしまうが、反面、そうした引っ掛かりが全くない文章にして読者を甘やかすのも、それはそれで読み手が成熟しない。そのバランスが、本書はちょうどいいのである。杏奈にはそんな、啓蒙のためという意識はないのかもしれないが、結果的に私は本書を通して、色々な言葉を知ったし、どれも素敵な表現の日本語を選んでいるという、意思が感じられて良かった。そういえば本書には、臍を嚙むという表現も出てくる。後悔を表す言葉だ。これもよく耳にはするが、私は使ったことはない。会話でとっさに使うことはおろか、文章の中でさえ、使いこなす自信がない。そんなやや気難しい言葉をさらっと手なずける杏奈の手腕に、やや嫉妬さえ覚えるものである。

 単語と言えば、フィトンチッドという言葉はご存じだろうか。樹木などが傷つけられた時に出す、揮発性の物質だそうで、癒しの効果があり、森林浴はこれをドバドバ浴びることなのだという。これは本書では、幼い子供たちにモミの木のやすりがけをさせるシーンで登場する言葉だ。もちろん、このような言葉も、杏奈は初めから知っていたのか、訳す段になって見つけてきたのか、ナディアがこの単語を選んでいるのかは不明である。ともあれ、私が初めて知って気に入った言葉の一つである。

 「別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。」これは川端康成の『掌の小説』の中の一節であり、本書の終盤でも引用される。本書はこの一節でいうところの「花の名」に満ちている。ナディアと、そして杏奈とが、教えてくれた一つ一つの言葉、知識が、折に触れて私にこの優しい世界を思い出させるだろう。カスターニエンはトチのことである。恥ずかしながら、トチと言っても、どんな樹木なのかイメージがつかないけれど、知ったばかりの単語一つ一つが、私をこの物語につなぎとめる。ブナは前述のような特性から、他の植物を締め出して、枯らしてしまう。一方、ナラはアーレンベルク王室の紋章であると同時に、忍耐の象徴だそうである。ブナもナラも、私は教えられなければどの木かわからないけれど、きっと今後の人生で、ブナの木やナラの木に出会ったときは、思い出すであろう、ブナの林でたった一本で生きていくナラに例えられる、強く優しい森林職人見習いの、青年の笑顔を。

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