■文筆について
文筆について書いてみたいと思う。文筆、とりわけ小説については、私は長い手紙だと思っている。言い換えれば文筆は、コミュニケーションの一形態である。文芸の創作、アートの神髄、芸術性の発露、黒い欲望の濁流、そんな素敵なものではない。ただ、普通の人が話をするくらいの感じで、私にとっては文筆が存在する。
多くの人にとって、信頼関係を結ぶことは、話すこと、コミュニケーションをとることによって、達成されるものであると思う。私にとってコミュニケーションは、話すこともそうであるが、書くことが第一義的に存在するため、先週の記事に記した通り、文筆よ信頼関係が密接な関係を持ってくるわけである。
そういうわけでも、私は書かねばなるまい。書くことは私にとっての快楽であり、外部とつながる手段であり、語りである。
■噛めば噛むほど味の出る
先日、メンターに、君は噛めば噛むほど味の出る人間だから、焦るな、自分を安売りするなと言われた。確かに、そうなのかもしれない。しかしである、噛めば噛むほど味の出る、ホタテ貝柱たる私は、誰かに噛んでもらわねば、それは乾物屋の在庫の肥やしに過ぎず、噛んでさえもらえれば俺は高級フレンチにも負けはせぬと息まきながら、不良在庫として棚卸減耗損の餌食となった、ビーフジャーキーやあたりめが幾人いたことか、そう思うに私は噛めば噛むほど味の出るくさやという、爪をしまいなくした鷹のような汚名を返上し、口に入れただけでとろけるサイコロステーキを目指さねばならぬ、そう思ったのである。
さもなくば、怒れる乾物屋の親父は、決して私を放っておくまい。いずれは倉庫の奥底に打ち捨てられ、鼠の餌にでもなるのが、関の山である。そうならないためにも、噛めば噛むほど味の出る、などという誇大妄想は捨てて、地に足をつけて、自分を安売りしたいと思う。赤札に次ぐ赤札で、大売り出しの投げ売りセールである。捨てられるのとは違う、少なくとも値段はつくのである。その程度の、低い目標でもって、生きてみるのがよいのだと思う。
■今週のごはん
Sendagaya#まぜそば #赤 #せんだが家 #千駄ヶ谷 #北参道
まぜそばというものを、もしかすると初めて食べたかもしれない。親切な店員がエプロン要りますかと聞いてくれたが、なんかねちょねちょしてるし、そうそう飛ばんやろと思って、要りませんと答えた。なんかねちょねちょしたのがネクタイに飛んだ。人生は、無情だ。