哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

『スピノザ『神学政治論』を読む』を読んで

■『スピノザ『神学政治論』を読む』を読んで

これは標題の著作を読んで私の感じたことである。であるからして、この本の言っていることや、スピノザが言いたかったことからは乖離しているかもしれない。その点を踏まえて読んでいただければと思う。

 

スピノザは汎神論の人である。この世界は、神に満ちている。これは日本人は感覚的になじみやすいのではないかと思う。八百万の神々であり、アニミズムのようなもの、そう私はとらえている。ともかく、そんなスピノザキリスト教の神について語っている。曰く、キリスト教の聖書で教えていることは、正義と愛徳すなわち隣人愛のみであり、これを守ることこそが敬虔というものなのだという。また社会契約説についても触れているのだそうだ。社会契約説とは、人間たちが好き勝手に振舞うと、それは万人の万人に対する闘争状態に陥るため、よろしくない。そのため、みんなで示し合わせて、自分たちの権利を少しずつ譲り渡して、国に統治を任せたのだよ、君、というお話である。それを、キリスト教的に解釈を行っているようである。

 

結果としてである、聖書においては、正義と愛徳が謳われている。またこの国家は、神に対して敬虔であろうとする者たちが、各々で権利の一部を委譲し、統治がなされている。であるからして、我々が不敬虔の誹りを受けないためには、ただ国家の法を犯さぬことと、敬虔であらんと欲する意思に基づいて行動すること、それだけが必要なのであるという。

 

しかし、考えてみると、これはなかなか苦しいものがある。自分に対して正直であれ、内省せよ、ということであろう。もちろん、スピノザは心の奥底で何を思おうとそれは勝手さ、表に出てくる行動が大事なんだぜ、みたいなことを宣っているようであるが、それはともかく、敬虔であろうとして行動することは時としてとても疲れないであろうか。現代においても、例えば常に道徳的な行いをしようとすると、それはとても疲れることである。電車に乗っていて、自分が座っており、目の前に杖を突いた老人がやってきたことを想像してみてほしい。心の中で、くたばれくそじじい、と毒づくことはスピノザも許してくれる、きっと。しかし道徳的であるためには、道徳的であらんと欲しながら行動せよ、と言われている以上、席を譲らねばなるまい。しかしである、そうそういつも席を譲ってばかりいられまい。座っていたい気分の時もあるはずだ、自分の体調が悪い時もあるかもしれない、そんなときに席を譲るべきか否か、どちら道徳的かは、自分次第といえばそれまでであるが、それでも決めがたいものがある。もちろん、道徳と敬虔は違う。しかしその違いを棚上げして、言わせてもらうと、やはり自分の側に判断基準があるのは苦しいものがある。いっそのこと、そういうシチュエーションでは、二回に一回は席を譲りましょうと言われれば、気が楽になる。そうでもないと、延々と席を譲り続けなければいけなくなる。万人の万人に対する椅子譲りゲームが始まる。

 

私がこの本の中で特に面白いと感じたのは、アルチュセールスピノザ主義者であるという点において、スピノザのような考えを実践していた、スピノザを考えるのではなく、スピノザのように考えていた、というところと、イデオロギー云々の話だ。

この世界、物質世界は、私の意志とは無関係に、動き続けている。私の意志、精神は、もっともらしい解釈をして、物質世界で自分の身体がした動きに対し、理由付けをしているだけであり、その実、まったく物質世界で起こることに、影響を与えられていない。そして、精神が見ていると思っているこの目の前の光景さえも、それは物質世界を正確には写しておらず、ただ精神世界の外に広がっているようで、精神世界から抜け出ていない。それであるならば、我々はもっと自由になれるのかもしれない、と思うのは早計である。妄想の中に生きることができるのではないか、二次元の恋人を作ることができるのではないか、などと思わなくもないのであるが、それは違うのである。むしろ我々の精神は、固く閉ざされているのではないかと思う。何に。物質にである。物質はそうあるべき法則したがって、動き続ける。多くの人はそれにきちんと後付のストーリーを描いて、きちんとついていく。私のようなのろまが、物質世界のスピードについていけなくて、物質世界の先読みをして、裏をかいて遅れを取り戻そうなどと、要らんことを考えて、失敗する。挙句、精神を病んでこんな長文をしたためる。

 

いったい『『スピノザ『神学政治論』を読む』を読んで』を読んだ皆さんは、いかが感じたことだろう。

 

 
■今週のごはん

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インドではお漬物のことをアチャールというらしい。英語でいうピクルスみたいなものであろう。それはそうとこの店は豆カレーがお替り自由である。意味不明なシステムである。普通、ライスやナンがお替り自由である。そんなに豆カレーばかりあっても、ライスが有限である以上、豆カレーが無限であっても仕方ないわけである。豆カレーが無限であるということは、当然、豆が無限にあることの十分条件である。豆が無限にあっても、これまた仕方がない。鳩じゃあるまいし。鳩、はとのもり、あ、そういうことか、納得。