哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

公共交通機関のこと

 

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※全てにNOを訴えるチャーリー氏@御殿場カルチャーファーム

 

■公共交通機関のこと

 先日、総武線に乗っていて、車内放送の人に「運転間隔の調整に、ご協力いただきまして、ありがとうございます」と言われた。

  ここで私が問題としたいのは、特に協力をした覚えはない、ということである。まるで事前に総武線が、かくかくしかじかで、これこれこういう協力をしてほしいのですが、と言ってきたことに対して私が、ふむふむ助太刀いたそう、とかいって協力したような物言いに、妙な感覚をを覚えたのだ。

  私は電車の座席に座って、寝ぼけ眼で存在していただけである。確かに、総武線氏は運転間隔を調整するために、某駅で通常より一分か二分か、長く停車をしていたのかもしれない、それにきっと彼は、けなげに〇〇駅で何分停車します、というアナウンスも入れてくれていたのであろう、私はちゃんと聞いていなかったが。

  いずれにしても私にとって協力した覚えのないことにありがとうと言われるのは、いささか抵抗がある。何しろ、私は何もしていないのだから。いや、実は無意識のうちに、何かに協力を強いられていたのかもしれない。では私の致した協力とは、果たして何であろうか。いやさ、協力しない行動とは何であろう。それは停車が伸びるというアナウンスを受信して忽ちに、否やを唱えるということであろう、それが弁論によるものか、実力行使によるものか、いずれにせよ総武線氏の勇気ある運転間隔の調整にNOを突き付ける行動、それが非協力的な行動ということになる。そして私はそういった行動を取らなかった、静かに電車に乗っていたというそのただ一事により、総武線氏に多大なる貢献を行い、影の協力者たる地位を堅固なものにしてしまったのかもしれない。

  これは恐ろしいことである。いじめはする者だけではなく、それを見過ごした周囲も同罪であるという意見を時折、耳にするが、それに相通ずるものがあるかもしれない。我々は日々、反対すべき事由にたいして、否やを叫ぶ義務を負っている、そういった十字架を背負いながら生きていく定めである、ということだ。その義務を果たさずして、自由に振舞う権利を主張すること等できはしない。日本人よ、不正に敏感になろう、悪に対してNOと言おう、声なき協力者になるのはやめにして、ともに戦おうではないか。さあ、このブログの記事をコメント欄でディスるのであれば、今だ。

 

■あっちへ行くのが嫌なこと

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 彼は御殿場カルチャーファームのゴールド氏である。彼を含め、先日三頭の馬に騎乗してきた。彼は車道側のラチ沿いが怖かったのか、たださぼりたくて仕事にNOを叫んでいたのか知らんけれど、私がそちらに導いても、あっちに行くのは嫌でござると言って、後肢旋回し、横っ飛びをし、ムーンウォークのような後ずさりをし、まったく言うことを聞いてくれず、私もそれに対して、脚の扶助を強くして、時折キェーーーッとか言う奇声を上げて気合をつける以外に手立てを持たなかった。仕方なく、別の人に乗り替わってもらうと、やはりしばらく、後ずさったりして、馬場の一か所に対して、とても気にするそぶりを見せていたが、時間をかけて何度もトライするうちに、彼はなんとなくその近くまで行けるようになり、最終的に普通にその地点を通過するようになった。やはり宥めすかしながら褒めてやらせるのが大事なようで勉強になった。人間も一緒である。その乗り替わってくれた人は褒めていかねば、自主性は伸びない。叱れば委縮して、自分で考えなくなる、と言っていた。馬も人も、良い面に注目しながら接していきたい、そう思った一鞍であった。

 

 今日のポイント

  ●力づくでは限界があるので、落ち着いて対応。

  ●人も馬も、褒めて育てることが大事。

  ●鞭を持とう!