哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

範田素量の脱藩すること

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範田素量の脱糞すること

 

 範田素量(はんだそりょう)は日向国飫肥藩(ひゅうがのくにおびはん)の忍びであった。というと、さも危険な香りのするハードボイルドな仕事のように思われる向きもあろうが、それは彼の勤めの実際とは、大きく乖離した想像である。いや、彼のずっと以前の先祖は、手裏剣を投げ、泥にまみれながら武骨な強者どもと刀を交えることもあったかもしれないが、江戸開府から四百余年を過ぎた現代において、平和ボケした飫肥藩から彼が仰せつかった仕事は、関所を通って自藩に出入りする品物を検めて税を課す、税関の仕事であった。もちろん、忍びの家柄であるからして、そのような物の流通を抑えさせることにより、他藩の情勢を探り、いざ戦の火種が起こった時には、軽いフットワークで斥候を務めることも期待されての抜擢であったのやもしれない、しかしそれも、彼のもっと先祖の頃の話であろう、現代の倭国にそんな戦の火種はどこにもないのである。それゆえに、彼は真面目に仕事に取り組んでいたか、というとそれがそうでもないのである。人々は生活が安定し、こうして元は忍びの家とはいえ、現代となっては藩の下級役人の家柄として、公権力の一部を振りかざせる身分が保証されてしまえば、あとは怠けるに限るのである。戦乱の世においては、年貢を多めに取り立てて、私腹を肥やすなんて言う悪代官もいたかもわからないが、飽食の時代である現代においては、もはやそれも必要なく、ただ庶民に対して、時折偉そうな態度をとり、民衆よりほんの少しだけ贅沢をできればよいという、プチブル的な生き方こそが望まれ、あとは職務中も余計なことはせず、ネットサーフィンでもしていれば良いのである。そんなわけで、範田素量は日々の雑務をこなし、時折思いついたかのように、毎年起案しているが大して内容は変わらない稟議書を作成したり、消耗品の発注をしたりして、十八時には庁舎を出て帰途に就き、満員電車に揺られた後、駅前の牛丼屋か中華料理屋で夕飯を食べて、二十時には家に着くという、規則正しい毎日を過ごしているわけであった。

 

 中馬力(ちゅうばちから)は範田素量の同僚で、隣の課に勤めていた。二人はもうすぐ四十の声を聞こうかという年回りで、お互いに独身貴族であったせいか妙に気が合い、時折、職場の近くの居酒屋で、杯を酌み交わしながらすごすことがあった。

「範田さん、どうですか、最近は。」

「ああ、このところはたいして面白いこともなく、しかし平和で良いですよ。上の奴らはTPPだなんだの騒いでいるけれど、私のような一兵卒には日々なだれ込む舶来物に、法定通りの税を課す、それだけですわ。」

「それに引き換え、私のところは危険物の取り締まりですからね、多少は楽しみがあります。この間も規定以上の火薬量の花火を持ち込もうとした鍵屋という業者を抑えましてね。そういった爆発物と、あと多いのは、やっぱり薬ね。」

「なんでも合法ドラックとかいう、法の網目を潜り抜ける薬もあるそうじゃない。」

「そ、これなんかもね。」そう言って中馬が取り出したのは、青い色をした小瓶であった。

「ホントは持って帰ってきちゃいけないんだけど、明日朝一で、ラボに持ち込んで組成を調べたいからね、持ち出しちゃった。」

「あ、そしたら中馬さん、明日は直行か。」

「そうそう、まあラボが開くのは十時だからね、この薬預けてから、のんびり登庁しますよ。」

「それで、その薬、何なの。」

「毛生え薬ですよ、それも強力なね。ケノービって言うらしい。まあ、調べてみないとわからないけれど、十中八九、黒だね。」

 時の城主、臼井長友守三郎(うすいながとものかみさぶろう)は二十代から激しい抜け毛に苦しんでおり、毛生え薬の輸入や研究を大いに奨励したが、殿様本人のみならず、家中総出で彼の毛根を励ましたにも関わらす、禿げ増すばかりの己を恥じたのか否かそれはわからないが、ともかく、ある日突然、毛生え薬の所持を禁ずる触れを出して、毛生え薬を取り締まり始めたのである。もっとも、このころは倭国全体を通して、虚飾を嫌うムーブメントが起こりつつあり、その波に乗って、神から与えられた以上の髪を欲することは仏の教えに背くこととして嫌厭される風潮であった。しかし、それでも一部の毛生え薬ユーザーからの、育毛を求める声は大きく、お上の目を盗んででも、闇で毛生え薬は依然として流通しており、それを取り仕切る反社会的勢力の大きな収入源となっているため、所持の一切の禁止という強硬策ではなく、所持を認めたうえで、流通に高い間接税を課す方が、政府にとっても旨味があり、コントロールもしやすいのでは、というのが現在の識者の共通認識であった。

「中馬さん、最近、てっぺんが来てるじゃん。使ってみなよ。」と、範田はふさふさの茶髪をかき上げながら、中馬をちゃかした。

「まったく人のことだと思って。じきに範田さんみたいな白髪を染髪することも、虚飾だと言って嫌われるようになるさ。」そうはいってみたものの、その日は二人で飲んでいる間、自分の頭のてっぺんをうすら寒く風が吹き抜けていく感触が、中馬の頭から離れなかった。

 

 その翌日のことである。中馬が登庁しなかったのである。その話を聞き心配した範田が、中馬にLINEで問い合わせると、話があるので自宅に来てほしい、とのことであり、仕事が終わるや否や市営バスに乗って、中馬の自宅を目指したのであった。

 中馬は範田と同じく一人暮らしであり、単身者向けのワンルームの賃貸住宅に住んでいた。昼に食べたカキフライ定食が良くなかったのか、範田はなんとなくお腹の張りを感じており、それでも同僚を想う気持ちから、えいやっと、三階の中馬の部屋まで階段を駆け上がると、呼び鈴を鳴らした。少したって、ドアーがさっと開くと、毛むくじゃらの手につかまれて、範田は中へ引きづりこまれた。およっと思う間もなく、中に入れられてしまった範田の後ろで、毛むくじゃらのそれはドアーに鍵をかけた。

「ひょっとして、中馬さんですか。」その毛むくじゃらは、頭だけでなく、顔から足の先まで、全身、毛におおわれていて、もはや大きな猿のような見かけであったが、その背格好や、ロマンスグレーの瞳は、確かに中馬のものであったのである。

「いかにも。範田さん、よく来てくれましたね。御覧なさい、僕の変わり果てた姿を。ほんの出来心のつもりだったんですよ。押収したケノービを自分の頭に使ってみたのです、それの小瓶の口から、想像以上に薬が漏れ出してしまい、全身にかかってしまって。でも、まさかこんなに効きの良い薬だと、だれが思うでしょう。朝起きたら、この有様です。毛は、剃れども剃れどもぞろぞろと生えてくるのです。笑ってください。」

「笑うわけないでしょう。どうすればいいか、一緒に考えましょう。」

「手はありません。この薬の効果を消す方法はあるのかもしれませんが、そもそもこんな破廉恥な姿をお殿様に見られて御覧なさい、命は助からないでしょう。私は今夜、闇に紛れて脱藩します。そして自由を求めようと思います。幸い、こういったご禁制の品々がどのように取り締まられているかはよく存じている、これからはその網をかいくぐる、密輸業者として冒険してみようと思います。そこでだ、範田さん、私と組みませんか。」

「私ですか。」

「そうだ、あなたは元々は忍びの家のもの。このような冒険にはうってつけです。もちろん、今の安定した公務員生活も大事でしょう、無理にとは言いません。しかし、出発するなら、今です。長崎に第千はやぶさ丸という、小型だが足の速い船がある。その船の持ち主は、大変な賭博好きでしてね、何とかそいつから船を手にして、大海原へ漕ぎ出そうではないですか。」

 

 範田の心は揺れていた。確かに、今の生活は安定している。それを退屈に感じる自分がいるのも、事実であった。しかし、そんな密輸業者としての冒険なんて、自分にできるのだろうか。うーん、と思案した。その間も、カキフライの油濃さと何らかの毒素は範田の腹を攻め立てた。しかし、そんなことも気にせず、範田は悩んだ。これが人生の分かれ目になることは、彼もきちんと理解していた。うーん、ううーん、うーむ、うーーーーん、うううううううんんんん、うーん、うーん……、ぶりぶりぶりぶり。

「あっ、ウンチ出ちゃった。」範田は叫んだ。

「汚えな、もういいよ。」中馬は吠えた。

 以上が、範田素量が脱糞した顛末である。