■Beyond the End: Ruins in Art History
渋谷区立松濤美術館にて開催されている、廃墟の美術史展に行ってきた。廃墟は西洋の美術界においては古くから画題として親しまれてきたものだそうで、ポンペイやヘルクラネウムといった遺跡に発掘と、17~18世紀頃のイギリスの貴族の子弟による学業の終了を記念した大規模な国外旅行、グランドツアーの流行などが廃墟が取り入れられる契機であったという。
当初は絵になる廃墟を発見し、それを絵画とする、という営みであったようだが、次第にそれは、複数の廃墟を組み合わせたり、現在の街並みに唐突に廃墟を登場させたり、妄想の中の廃墟をイメージ化したりといった、奇想な廃墟の誕生へと繋がっていくことになる。
中でも私が気になった作品は18世紀イギリスの画家であるリチャード・ウィルソンによる「キケロの別荘」という作品である。キケロは古代ローマの政治家であり、当時の多くの著名人同様、別荘を所有していたそうであるが、ただし、この絵に描かれているのは、ローマにあり悪魔の椅子と呼ばれている、別人の墓とのことであった。そういったモデルそのままの風景ではなく、画家の想像や、レイアウトが入っているのが絵画を鑑賞する楽しみの一つだ。私は、この画家が作った世界に入り、その落ち着いた色彩の中の奥行き、広がりを感じることができて、心地よかった。
他に気になった画家は、廃墟のロベールと呼ばれているという、ユベール・ロベール、アシル=エトナ・ミシャロン、そしてジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージである。
■日本の画家と廃墟
日本においては、廃墟を画題として積極的に取り入れるという習慣はなかった。だから江戸期から明治初期において、いくつかの西洋の廃墟を描いた、日本人画家による作品が存在するが、それは進んでそれをモチーフとしたというよりも、西洋の作品をお手本として見様見真似で描いたり、西洋人からの求めに応じて描いたもののようである。
1969年の作品なので、最近の作品になるが、不染鉄に「廃船」という絵がある。とてつもなく大きな、使い物にならなくなった船を描いている。解説には、古代遺跡や古刹ではない、近代工業による廃墟であると書かれていた。なるほど、廃墟というのは、何も古代遺跡だけではなく、今も日々生まれゆくものなのだ、ということに感じ入った。
そこまで時代が下らないうち、江戸や明治の、日本人による廃墟の絵は、西欧人が色々なところにある廃墟を、一つの画中にめちゃくちゃにまとめたものを、そのまま写して、浮世絵にしてしまっていたりと、面白い。亜欧堂田善の「独逸国廊門図」など、描かれているのは、ローマの別々の廃墟であり、ドイツですらない。他に素敵なのは、歌川豊春、澤部清五郎。
■終わりのむこうへ
最後に展示はシュルレアリスムが廃墟をモチーフとした作品、そして現代作家による、廃墟の表現へと移っていく。シュルレアリスム関連の展示の中ではポール・デルヴォーの「海は近い」が特に気に入った。
廃墟の中に、何人もの裸婦がいて、近代的に街灯、バックには暗い夜の海、はっきり言って意味不明で気持ち悪いのだが、それが良いのである。これは何だろう、この人は何をしている、これから何が起きる、意味不明だからこそ、想像ができる。そもそもシュルレアリスムは想像力の解放と、合理主義への反逆の運動だと解説されていたが、まさにこれを見て、我々は想像力を開放させなければならない。
こうして、昭和から現在の日本人画家が描いた廃墟を見せて、展示は終わる。大岩オスカールはブラジルの日系二世だ。「トンネルの向こうの光」ではトンネルの向こうにあたる部分が切り取られていて、向こうが見えるようになっている。そこがどう見えるかは絵を飾る場所、絵を見る人に委ねられている。終わりのむこうがどうなっているかは、見方によって違うのだなと、それならば終わりのむこうを明るいものとみることも自由なのだな、と感じた。
今井憲一の「バベルの幻想」では、バベルの塔に集中すると、青空や手前の日常は見られなくなり、反対に手前の日常を見て、青空を見ようとすると、塔の部分が上手く知覚できない。見えないけれど、それは確かにある。バベルの塔は人間が神に近づくという驕りを戒めるために、神が人間に色々な言語を喋らせてバラバラにしたという、寓話だ。見えないけれど今も日常に存在するバベルの塔は、現代の我々が持つ、自分たち人間こそが全能であるという驕りを戒めてくれる。
廃墟は時間を表すことのできるモチーフだ。私は遠い過去に、描かれた絵を見るのが好きだ。それはその時代、現実の世界を眺めていた画家のまなざしを感じることができ、まさに時間を感じることができるから。しかし廃墟は、それだけではないのだ。遠い未来、今の日常こそが廃墟となり、未来人から、遠い過去として眺められるようになる。その時のことを、今が廃墟となった未来のことを想像させるのが、廃墟を描いた作品なのだ。
我々はロベールやピラネージの廃墟を眺め、それを美しいと感じたり、懐かしがったりしながらも、ほどほどに現代に胸を張ることができている。今から何十年、何百年先の人々が、現代という廃墟を懐かしみながら、しかし彼らの生きる時代に胸を張ることができる、そんな未来を作らねばならない。それこそが、終わりのむこうにあるものである。
↓ 前回、渋谷区立松濤美術館に来場した際の記事 ↓