哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

徒然なること

 

■徒然なること

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 お馴染みのカフェ・ド・クリエで緑色の頭をした男性が給仕をしている。緑色の髪の人を雇ったのかと、思ったのだが、ふと、働いていた男性が緑髪になったのかも、と思い直した。わからない、毎週のように訪れていながら、ここの従業員で、私が顔を覚えているのは、一人か二人だと思う。

 先日職場の同僚が髪を短くしてきた。本当だろうか。本当に私の知っている同僚が髪を切ったのだろうか? 髪の短いまったくの別人である可能性はないのだろうか? 何しろ、私の知っている同僚は髪が長かったはずである。髪が短い人は別人である。

 そんな私の周りの諸々を、徒然なるままに、記す。

 

 そもそもツレヅレとは何だろう。全然関係のない話なのだが、能では主役のことをシテと呼び、彼らはしばしば亡霊であることが多い。対してシテと向き合って、彼らを成仏させたり、退治する、生身の男性を演じることになるのが、ワキ、と呼ばれる役割の役者である。

 そしてこのシテやワキに連れられてくる人々をツレ、と呼ぶ。例えば能の高砂においては、前場と呼ばれる前半パートでの前シテ(主役)が老翁じつは相生松の精、後場での後シテが住吉明神である。同様にツレ(準主役)が姥じつは相生松の精である。要はこのそろって出てくるおじいさんとおばあさんは、松の精であり、そんな人はこの世の人ではないのである。一方でワキ(相手役)は阿蘇神社神主阿蘇友成であり、ワキにつき従うワキツレは阿蘇友成の従者であるので、生身の人間であり。阿蘇神社というところに住所があり、神主という仕事をするビジネスマンである。

 ツレ、という音の響きだけでここまで妄想したところで、はたと考えた。はたして、このツレ、というかシテとかワキとか、能を知らない人にどう説明したらいいのだろうか、と。

 ここで私は画期的なことを思いつく、日本人になじみが深い物語に置き換えて、たとえればよいのだ。日本人が誰もが知っている物語、それは何と言ってもサザエさんである。しかし、残念ながらサザエさんには、異界の生き物はたぶん登場しない。少なくとも、主要登場人物は、みな、住所をもって、学生だったり、会社員だったり、主婦だったりする。アナゴ君が異界の住人ではとか、そんな詮索は不要だ。

 そうなると、次の選択肢としてあがってくるのが、当然、ドラえもんだ。そう、ドラえもんは、うまい具合に彼自身が異界の生物(未来のタヌキ型ロボット)なのである。これは非常にちょうどよい題材だ。

 上に記した理屈に基づけば、ドラえもん自身がシテ(主役)である。ワキ(準主役)は当然、ドラえもんと一緒におり、きちんとした生身の人間であるのび太であろう。そうなると、ワキツレは、しずかちゃん、ジャイアンスネ夫となる。では、ツレは誰だろう。

 もちろん、お能でも、ツレのでない演目はあるのだから、ドラえもんにツレが必ず必要ということではない。しかし、強いてあげるのであれば、それはドラミちゃんではないかと思う。まあ、それはもはやどうでもよい。

 しばしばお能は、複式夢幻能という形態をとる。それは生身の人間で、僧や旅人であるワキが見知らぬ土地で、不思議な人物に出会う。その人は、その地に住んでいた今は亡き有名人のこと等を物語する。それはしばしば悲劇の物語である。最後に実は、自分こそその人なんですよ、と言って消えていく。これが前場である。そして後場になって、この人は再登場する。後場では、きちんと亡霊のスタイルをしている。足が透けている、かどうかはわからない。ともかく、それで彼らは恨みつらみを愚痴ってみたり、今いる地獄の辛さを悲しんでみたりし、ワキによしよしして慰めてもらって、成仏して帰っていく、めでたしめでたし、である。

 つまりである、ドラえもんにおいては、ワキののび太以下、生身の人間のもとに、怪しげなドラえもんなる人物がドラミなる女性を伴って現れる。ドラえもんのび太に、未来にはタヌキ型ロボットが開発されて、人間と友達になり、タイムマシンで自由に時間旅行ができるようになると告げ、そして最後に、自分こそ未来から来たタヌキ型ロボットであると、告げる。そして中入りをはさんで、ドラえもんのび太の子孫であるセワシが、未来でいかに情けないかを説き、のび太は子孫のために頑張る決意をする。大体こんなような話であろう。

 

 今朝はそんなことを考えながら、愛すべき中央総武線に揺られ、座席でうとうとしていた。

 これはもう絶対に、通勤電車で座れた時は寝るべきである。寝なければならない。寝ないことは、世間への反逆である、とさえ言える。

 電車には、様々な人間の欲望が渦巻いている。本を読む、新聞を読む、音楽を聴く、勉強をする、スクワットをする、女子高生のスカートを覗く、化粧をする、寝る、等である。この中で、圧倒的に座らないとできないのが、寝ることである。もちろん、器用につり革に捕まって寝る人がいないわけではないが、それはともすれば転倒し、自分や周囲の人間を傷つける点において、もっとも下等な行為と言える。

 そういった悲惨な事故を繰り返さないためにも、電車の座席とは寝る人のためにこそ、存在する。実際、朝の中央総武線の上り電車の車内の座席着席者の実に半数ほどが睡眠を実行し夢の旅人として大いに活躍しているものと見受けられる。そして立っている人の多くが、着席し速やかに夢への旅路につきたいと、情熱の炎をこれでもかと燃え滾らせている。そんな中で、着席しながら寝ていないということがあってよいだろうか、いや、良くない。着席したら速やかに眠るべきであるのだが、眠っていない人の中でも、人間として価値があるか否か、多少の違いはある。これは私の趣味の問題ではなく、すでに委員会で決定されたこととして、認識いただきたい。

 つまり、下等な行為としては新聞を読むことがあげられる。あんなに混んでいる車内で、ばさばさ音を立てて、新聞を広げる等、言語道断である。特に良くないのは日経新聞である。何故か日経をもてはやす風潮が世間的にできつつあるが、あんな経済紙を必要としているのは一部の投資家だけなのであって、あれを電車で広げているのなど、何かを勘違いしたインテリ気取りである。対して、学生が狭い座席でノートと参考書を広げている姿など、好感が持て微笑ましい。勉学は寝る間を惜しんでやるものであるからして、これは非常に、寝ない、またとない理由となるわけですな。

 そしてこうした数ある、電気鉄道座席着席睡眠推進運動を愚弄する行為の中で、最も唾棄すべき行為は、スマホでゲームをしたり、映像を見たりすることである。やつら、意味もなく肩肘を張って我がわき腹に食い込んでくるのはなにゆえか、本を読むひとは肘がぶつからないようにおしとやかに読む、寝る人は全身が虚脱し、ふんわりとする、ところがスマホを持つ手は、何故かこわばり、肘が両隣の人を襲いがちである。あれは良くない、何故かよくわからんが、きっとよくない。私はそんなことを考える次第である。そして、さらに私はこういう風に思う、こういうくだらないことを考えるくらいならば、やはり電車の中では寝てしまうのが良いのである。

 

 カフェ・ド・クリエにて私は思う。こんなことを書き終えた私は、果たしてこれを書く前の私と同じ私なのだろうか。

 書く前の私は、こんなことを少なくともきちんと言葉として考えていたわけではなかった。多分、ざっくりとした、感触として、これらのことを認識していただけであった。しかし、文章にする過程で、それらを言葉として理解してしまった。その前と後で、私の中にある論理の流れが、一つ以上増えている、その前後の私は、果たして同じ私なのだろうか?