哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

迷いと決断のこと

■迷いと決断のこと

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●めざめ

 令和元年6月2日、私は朝8時に目を覚ました。昨夜は、自由に使える時間があったのだが、夕飯のカレーライスを食べ終えて、Youtubeでゲームの実況動画を見ているうちに、気が付いたら随分と時間が過ぎてしまっており、眠くなっていたので、さっとお風呂につかって、出てくると、そのまま寝てしまった。ネット動画を見ることは趣味の一つで大切な時間であるが、それでもただ楽しいだけで、無駄に過ごしてしまっているような気がして、否めない。

●ようつべ

 とにかく私は、目を覚ました。時間を確認するために手に取ったスマートフォンで、そのままYoutubeのアプリを開く。登録しているチャンネルの最新の動画や、その他のオススメ動画が、ずらーっと表示される。ここまでの動きに、一切の迷いはない。まるで習慣としてやっているような行為だ。もちろん、平日は目覚めとともに、出社の支度をすることもあるから、そんな自身の指の動きを押しとどめる必要があるのだが、こうした確たる用事のない休日は、私はその決断を、しばしば指と身体が動くに任せることにしている。スマホを片手に、ゴロゴロしているうちに1時間近くたってしまう。そんなことに気が付くのは、ふと催しが強くなって、トイレに行ったタイミングだ。画面を視界の端にとらえながら、食パンをトーストし、バターを塗りたくり、食事にする。

 確たる用事はないのだが、今日は電車で数駅ほど離れた美術館に行くつもりであった。その美術館の近くには、お気に入りのカジュアルフレンチのお店があるので、そこで昼ご飯を食べるつもりである。

●おのう

 とはいえ、まだ朝の9時前である。朝ご飯を食べて速やかに出発しても良いのだが、ひとまず身の回りの雑事を片付けてから、外出すればよい。今日はこの記事を書かなければならない、ブログの更新日である日曜日であったし、昨日、一昨日と観劇した舞台の感想を、個人的につけているエクセルのメモに更新しておかないといけない。

 この世には、しなければならないことがたくさんある。そういった行為は、本来的な必要性の判断を保留されたまま、ある時、納期不明で、私の頭のマストタスクの一覧に書き込まれ、私の行動を制限した挙句、しばしばその解決を見ないまま、忘れ去られることがある。

 ともあれ、今日の私はそのToDoを消化すべく、まず一昨日、渋谷のセルリアンタワー能楽堂で観た、能の感想を書き記す。み絲之會という、3人の若い金春流シテ方能楽師の公演で、「船弁慶」の後シテ(平知盛の幽霊)が薙刀を振りかざして、源義経武蔵坊弁慶の乗る船に襲い掛かる様は圧巻である。シテを勤められた柏崎真由子師がとにかく格好良かった。能というと、動きの少ない静的なものがイメージされるが、一曲の中にこうした立ち合いの様な、動的なシーンを有する物もあり、そういった曲は見ていても楽しい。

 その日の番組は、素謡の「翁」から始まる。先日の武田神社薪能で、素謡の「翁」のことを「神歌」と呼ぶことを学んだのだが、今回のプログラムでは、素謡「翁」、と記されている。つまりそれは「神歌」と同義なのか、それとも別物なのか、よくわからない。わからないので、ネット検索をするが、やはりよくわからない。「翁」は能にして能にあらずとされる神事であるため、演じる前に能楽師は食事の制限など、身を浄める期間を設けるそうだ。流派によって、おそらく色々とその浄めの方法はあるのだろうが、その中で女人を遠ざけるというものがあった。私はいつでも「翁」を舞っていいのかもしれない、そんなくだらないことを考える。

●らくご

 さらに一昨日の翌日、つまり昨日は半蔵門にある国立演芸場で、6月上席(主任:むかし家今松師)を鑑賞したため、その感想も記す。代演で出ていらした古今亭志ん輔師の「宮戸川」が良かった。この日のトリである今松師は、7代目。そういえば、大河ドラマ「いだてん」でビートたけしさん演じる古今亭志ん生の弟子、今松を荒川良々さんが演じており、ふと今松の名跡についても調べてみたりする。「いだてん」に登場する今松は6代目であり、また、志ん生の長男で後の10代目金原亭馬生も、二つ目時代に今松を名乗っていたそうだ。

●にゅうみん

 こんなことを作業として進めながら、時折、疲れを感じてYoutubeやその他SNSに逃げながら、時間を浪費するうち、ふと眠気を感じる。昼前である。迷いはなく、ただ決断だけがあった。ひと眠りしよう、と。目が覚めて、電車で移動して、遅いランチを頂き、美術館に繰り出せば、ちょうどよいではないか。そうして私は眠りについた。

 現代生活を送っているとついつい夜更かしをして、それでも平日は朝早くから出社しないといけないので、寝不足になる。事前の寝だめというものはできないものだが、確実に睡眠の負債は溜まっていく。つまり貯蓄ができないのに、借金だけはかさんでいく、これが睡眠の正体である。だから、私は来るべき寝不足への蓄えのためではなく、過去の私の睡眠の不足の補填のために、滾々と眠るのである。

●まよいとけつだん

 令和元年6月2日、私は昼13時半に目を覚ました。今朝は朝食のトーストを食べ終えて、なんやかやと用事をこなしながら、Youtubeで動画を見ているうちに、気が付いたら随分と時間が過ぎてしまっており、眠くなっていたので、昼寝をしてしまった。昼寝をすることは大切な時間であるが、それでもただ気持ち良いだけで、無駄に過ごしてしまっているような気がして、否めない。

 とにかく、私は目を覚ました。これから着替えて、電車で移動して、遅いランチを頂き、美術館に繰り出すには、ちと遅い時間である。行きたい美術展の会期のおしりと、これから数週間の自分の予定とを、しばし頭の中で動かしてみる。やはり今日、特に美術館に行かなければならないという必然性はない。かくてして、私はわずかな迷いの後、速やかに地元に引きこもる日曜日を決断し、着替えを済ませるとそそくさと松屋のランチ(牛めしと生野菜、生卵のセット)を頂き、しかる後カフェで粘りながら、この文章を書いている。

 我々の日常は迷いと決断の連続である。しかし、その迷った時点では、決断はそうは残されていないのではないか、と思う。少なくとも、こうした今日をすごすと決めたのは、私であるようで私ではない。私の自我が判断を保留しているうちに、私の身体が時間を浪費し、私の睡眠欲が自我に麻酔をかけた。私は私を取り巻く多くのものたちの、とっさの行動に縛られながら、日々を形作る。この文章も、私は何も考えていなくて、私の指先が勝手気ままにキーボードの上を走り回った結果である。その文章が、果たして現実とどれだけマッチしているのか、それは誰も知らない。

 

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 #「迷い」と「決断」

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