哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

今週は投稿をおやすみしますのこと

■今週は投稿をおやすみしますのこと

 さて、これまで一年以上の長きに渡って、毎週一件(以上)の投稿ペースを守ってきたのだが、この程、誠に残念ながら、それをおやすみしたく、こうして事情の説明を述べるものとする。

 そもそも、今週(2019年7月14日)に投稿予定であった記事が、青山文平氏による時代小説『跳ぶ男』の感想等のまとめについて、であった。簡単にあらすじを記すと、江戸後期の小藩に能役者(道具役)の息子として生まれた、屋島剛という少年が主人公である。彼は母を失い、また家の跡取りとしての地位も失ってしまう。それでも、懸命に能役者として生きていくべく、同じく能役者の家の息子である、岩船保に教えを乞い、独力で能の稽古を続けるのだが、ある日その保も剛の前からいなくなってしまう。それでも、剛は全く思いもよらない形で能を続けることになるのだが……、というお話である。

跳ぶ男

跳ぶ男

 

  能楽の知識を得るという点では、とても良い作品である。作中、主人公が舞うことになる、東北や百万、鵺について、背景も踏まえて非常にリアルな解説がなされている。時にそうした能への言及が観念的過ぎて、意味をつかみかねる部分はあったが、物語として流れていくので、完全に理解できない部分は捨て置いて楽しむことができた。ただし、私が気に入らないのは結末である。私の好き嫌いだが、はっきり嫌いな結末だ。だから、能好きには是非、能を題材とした作品として読んでもらいたいが、本好き、読書好きには勧めない、もっと素敵な物語はいくらでもあるから。

 というのが、本を読んだ直後の、私の率直な感想である。あくまで小説であり、また小説家の文章であるので、そこで語られる能の知識や、歴史のもろもろが、全て事実である、学術的な主流派である、という確証はない。それでも後半、能の優しさ、能は生きとし生きる全ての者の肯定である、彼らがどう生きてどう死んだかを表現する、というのは、ストンと腹落ちする考え方であり、そういった視点で能を観てみることは面白いと思う。それを言うならこの小説作品自体が、ある一人の人物の、どう生きてどう死んだかの表現形である。その意味でこの小説は優しさに満ちているのかもしれない。

 しかし、この小説世界がどんなに優しかろうと、納得出来ぬものは出来ない。それが私の考えである。物語であろうと、その物語を結末させる手段、物語を進めるための手段として、人の生き死にが扱われるのが、私にはなかなか受け入れられない。

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 また、この記事を書くに辺り、沢山の調査、勉強が必要になりそうであった点が、今回、投稿をおやすみするに至った一因だ。例えば、この物語はその背景、モチーフとして、藩主の急養子(末期養子)というものがある。高校で習った末期養子は、四代将軍家綱の時代に、末期養子の禁止の緩和、という表現で登場する。それでは、そもそもこの末期養子とは何であるか、これは藩主が死に際に跡取りを養子でとることである。藩主に跡取りがいないまま、病気等で急に没してしまうと、お家が途絶えてしまい、部下が困るのである。ところが江戸幕府は、こうした末期養子を、ひとつには家臣が藩主を暗殺して首をすげ替える恐れがあるとして、もうひとつには、各藩の跡取りがいないなら、家を取り潰して、地方の国力を削いでしまえという理由から、認めていなかった。しかし、こうしたお家断絶にともない、失業した浪人たちが暴れたため、この禁止を緩和し、藩主の年齢が17歳~50歳の間等といった条件付での末期養子を認めるようになったのである。

 時代小説を読むことは、こうした学生時代に学んだ知識に奥行きを与える。それは当時の世相をより立体的に理解するのに、非常に役立つのであるが、その作品を語るとなると、それなりの知識を必要とするため、こうして二の足を踏んでしまうのである。

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 もうひとつ、今回こうして投稿をおやすみすることにした理由として、私が今週、多忙にしている、ということがあげられる。前回のブログの投稿をした日曜日、翌月曜日火曜日は私は本業の勤めをしていた。その後、水曜日から金曜日までは夏季休暇をいただき、特に水曜日は執筆の時間がとれるつもりであったのであるが、家の用事が入ってしまい断念した。木曜日金曜日と松本への旅行の用事があり、土曜日は本業、日曜日はやはり上野への外出の予定であり、そうするとまとめてパソコンに向かって執筆する時間が取れず、こうしてちょぼちょぼとスマホから、言い訳をするくらいしかできなかろうと、投稿を諦めた次第である。

www.rakugo.or.jp

 というわけで、私はこれから上野の鈴本演芸場柳家喬太郎師の落語を聴きに行くので、このような駄文をしたためている暇はないのである。ゆえに今日は大変恐縮ながら、投稿をおやすみし、この文章は決して日の目を見ることなく、私の頭の片隅に葬り去られる見込みである。