哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

天気の子のこと

新海誠監督、『君の名は。』の前と後。

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 『君の名は。』の大ヒットで一躍、有名監督となった新海誠監督の最新作が、ついに今夏公開された。『天気の子』である。私は本日(2019年8月4日8:00現在)、この作品を鑑賞に映画館に足を運ぶ予定である。これから映画を観る。しかし、私は一時も早くこの映画について、この映画の感想を語りたいのである。ゆえに、いささか先走りながら、映画の感想を、映画を観る前に語り始めるものとする。

tenkinoko.com

 

●天気の子の感想のこと(2019年8月4日9:00現在)

 簡単に天気の子のあらすじを説明すると、主人公はある農村に住む青年(〆次)である。〆次は日々、キノコを育てて収集する生活を送っていたが、テレビも、ラジオもない村に嫌気がさして、オラこんな村いやだ、と言い残して出奔、一路、大都会東京にやってくる。東京にやってきたものの、〆次にはキノコを育てることしかできず、日々の食料を調達することにも苦労するありさま。これでは夢である東京でベコ飼うこと等、夢のまた夢。しかし、彼は新橋のガード下で、天気の子を自称する妙な風体の中年女性、舞竹に出会う。天気を自在に操ることができるという、ブレスレットを販売する舞竹の妖艶さにひかれる〆次。彼女が暮らす西新宿のワンルームに転がり込むと、部屋の隅のじめじめした一角で、ベニテングダケの栽培を始める。隣室に住む会社員の榎とも知り合いとなり、順風満帆な東京ライフをエンジョイする〆次であったが、ある日、東京のキノコ界を牛耳る、テンキノコと呼ばれる、10人の伝説のキノコ農家の存在を知る。この10人のキノコ農家を打ち倒さなければ、ベニテングダケを農協に大量出荷することができないことがわかり、〆次はさらなる力を求めて、奥多摩に住むという、幻のキノコ農家、ミスター・マッシュルームを訪ねるのであった。果たして〆次は、キノコ界から身を引いた、ミスター・マッシュルームに教えを請い、テンキノコとの骨肉の争いを勝ち抜くことができるのか、そして舞竹との爛れた愛の行方は。

 とまあ、こんな内容である。結末は是非、映画館でお楽しみいただきたい。これは当然、新海監督流のメタファーである。キノコをキノコとしてとらえているうちは、この物語の真の姿を理解することはできないだろう。キノコとは、毒を有する物もあり、我々にとっては危険な存在でもある。しかし、ご存知の通り、キノコは食品であり、我々人間の生活を助けてくれる、良い面もある。そうした、良くも悪くもある、二面性を持った存在、つまり人間である。人間そのものを、今回、新海監督はキノコを通して描いたのだ。

 そしてテンキノコとは、若者の新たな発想をひねりつぶす、旧態依然、既得権益のことである。そうした社会の大人たちに戦いを挑む〆次の決意には、涙を禁じえない。是非、劇場でご覧いただきたい。 f:id:crescendo-bulk78:20190804085845p:plain

 

●天気の子の感想のこと(2019年8月4日15:00現在)

 そういうわけで、映画『天気の子』を鑑賞し、陳麻家にて担々麺と麻婆丼を頂戴し、しかる後に帰宅した。以下、ネタバレありです。

 映画としては、よくできていたと思う。2時間程度の作品であったが、途中、一切飽きがこずに、最初から最後まで集中してみることができたのは、脚本・演出のテンポの良さ故であろう。また大雨の続く東京、 天気を操る女の子、しかしその晴れ女に、代償が……、というのは、どこかで聞いたことのある様な設定、混み入り過ぎないルールでキャッチーだし、森七菜演じる陽菜の「もうすぐ晴れるよ」という声も可愛らしいし。

 一点だけ、映画の中で不満があるとすれば、主人公の少年帆高が陽菜を、空から連れ戻すシーン、陽菜が天気を操る力を手にした廃ビルの屋上の神社(お稲荷さん?)から、積乱雲に落ちていき、陽菜を捕まえ、東京に向かって落ちていき、気が付けば鳥居の下にいるのだけれど、このあたりの理屈がよくわからなかった点。物語としてすらーっと流せばよいのだろうけれど、なんとなく、ご都合主義を感じてしまった。

 とはいえ、その程度の疑問・不満であるので、あとは本当に些細な、何で帆高は大雨の甲板に出たのとか、帆高が拾った拳銃を持ち続けた理由とか、物語後半の警察官や鉄道作業員の無能さとか、くだらない謎ばかりであり、総体としてはよくできていた。全てご都合主義に思われるが、しかし全て物語を起こし継続するための人為的な力であり、語りたいことを語るためには、必要な措置であろう。空から陽菜を助けることまでだけでなく、その結果としての東京を描いたのは面白いし、そのビジュアルがかっこよいと思ったし、ラストシーンも素敵だった。須賀や穂高には、あまり感情移入できなかったのだけれど、陽菜の気持ちの揺れの描き方は綺麗だった。 

 そしてそんなことより、私が書きたいのは、新海誠監督がいつからか、ハッピーエンドのファンタジーを描く作家になったのだなぁ、ということである。いや、もちろん彼は、その初期からほしのこえや雲のむこう約束の場所でファンタジー(SF)を描いていたし、雲のむこうもあるいは言の葉の庭であっても、ハッピーエンドであった。なので、その二つの特徴はどちらも君の名はに始まったものではなく、その両方に当てはまらないのは、秒速5センチメートル位だと思うのだけれど、それでも、天気の子は君の名はに似ている気がする。君の名はから、監督が少し変わったように思われるのだ。

 ほしのこえ、雲のむこう、秒速、これらはいかに男女の距離、別れを描くかのため、リアルな離別の寂しさを表現するための、ヴェラシーラ等のSF設定だったと思う。また、私にとっての新海誠監督が本当に上手いと思うのは、リアルのルールから外れずに東京、日本、世界を描くこと、秒速やボスポラス海峡トンネル(大成建設テレビCM)そしてなにより、私がもっとも好きな言の葉の庭である。その点、君の名はや天気の子では、世界の謎や仕組み、そのものが問題となってきているように感じる。

 不思議の世界の不思議を解き明かすこと、それがそのまま、一組の男女の関係に繋がっていく。君の名はでは、入れ替わりと時間のずれ、そして天気の子では、天気の巫女にまつわる謎。それがこの二作での、新海誠監督のトレンドのように感じる。

 ともあれ、そろそろこうした、設定ありきの不思議な話ではなく、言の葉の庭のような、どこにでも起こりうる人と人との心のやり取り、心の距離に着目した物語を観たいなぁ、と思うものである。それは新海誠監督の進化であり、間口の広がりであったのだと思うのだけれど、私は言の葉の庭のようなこじんまりとした、しかし恐ろしく丁寧に描かれた作品も、継続して観ていきたい、世界規模ではなく、二人の男女の関係の間で完結する程度のスケールの物語を観たい、そんなことを考えた映画鑑賞でした。

 

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