哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

亜熱帯

  

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 汝にかかわりなきことを語るなかれ

 しからずんば汝はこのまざることを聞くならん

 

古書店

 分厚いハードカバーの本の表紙には、開かれた本、浜辺とヤシの木、そして人間が描かれていた。本のタイトルは『熱帯』とある。

 私はその本を持って、電車に揺られていた。シートに座って辺りを眺める。夏の朝、車内は冷房の風が寒いくらいであるが、駅で停車する度にけたたましい蝉の声とともに入り込んでくる熱気は、なかなか強烈だ。

 窓の外を眺めれば、住宅が多く、時折、商業施設が立ち並ぶ駅も通過する。こうして座って、のんびり職場に向かうことができるのは、夏ならである。八月にもなれば、大半の腐れ大学生やそれよりも小さき人々は休みに入るので、多少ではあるが電車が空くのだ。そう、思って、はてと考えた。私は何の仕事をしているのだったか?

 その辺りがいまいち釈然としないまま、浅草橋駅で銀色の車体に黄色いラインの入った電車を降りる。階段を下り、気がつけば身体は都営地下鉄のホームに向かっていた。風通しのよいはずの白い麻のシャツも、汗でぺっとりと背中に張り付き、リュックサックから扇子を出してパタパタやってみても、気持ちの悪い生暖かい空気が顔にかかるのみである。

 かくして私は、東銀座駅から徒歩数分、歌舞伎座の裏手にある古書店に到着した。

 昔、ある新刊書店で勤めていた時は、毎朝が戦争であった。新発売の雑誌が朝早くに配送業者によってもたらされるので、早番の人間は出勤するなりその荷をほどくと、延々と雑誌の紐かけをするのだ。最近の女性誌のほとんどには、付録として有名ブランドとコラボした、ポーチやらエコバッグやらが付録となっているので、その付録の入った箱を、雑誌の真ん中に挟んで、それが飛び出さないよう四隅を抑えるように、一冊ずつ紐で縛るのだ。入社当初、ある百貨店の上の方の階にある店舗で働いていた時はそれでも、午前中は客足がまばらなのでなんとかなっていた。しかし、次に配属された駅ビルの中の店舗は朝が地獄であった。出勤前のサラリーマンや通学中の学生、電車で遠出する新幹線の中で眺める本を探しに来た旅行者、外国人、雑多な人々が開店するや否や押し寄せる。店の品出し、接客、電話の対応をしていると、もはや自分が何をしているのかが、わからなくなる。それでも好きな本に囲まれた毎日は慌ただしくも、楽しいものだった。その次の異動までは。

 その次に配属された店舗は、郊外の商業ビルの中にある店舗で、直前にいた駅ビルの店よりは、遥かに落ち着いて働くことができる環境であった。しかし、その落ち着いた環境というのは、時として人を狂わせる。私はその店で、副店長という肩書で、店長とただ二人の正社員であった。他は十数名のアルバイト、中には十年以上もその店に勤めている古参バイトもおり、彼らにとって、異動して一、二年で去っていく若輩者の私など、上司というのは名ばかりで、いじめの対象でしかなかった。根気よく彼らとの信頼を築こうと、頑張ってはみたものの、年長のアルバイトには馬鹿にされ、はじめは愛想よく接してくれた学生バイトたちも、結局はキャリアのあるバイトの先輩に付くことを選んだようだ。それでも同じ社員として、上司・先輩として、店長はとてもよくしてくれたが、 よくしてくれ過ぎたか、私は家庭のある上司と不倫関係になった。そうした不安定な店長との関係と、職場の居心地の悪さとは私の精神を徐々に蝕み、気が付いたら朝の雑誌の準備中、商品のゼクシィにカッターを突き立てて切り刻んでいた。雑誌の表紙の幸せそうな女性の顔が、カッターで削り取られていくのを見て、私の心は少し落ち着いた。その場に居合わせた数名のアルバイトは、不安げな表情でこちらを窺うのみであった。昼過ぎに遅番で出社した店長に、退職届を提出して家に帰った。携帯電話には、店長や会社の人事部から何件も電話が入ったが、私はすべて無視をした。

 そういう危険性があるから、俺は古本屋を始めたんだ。そう、棚橋さんは言って、顎髭をさすった。そう、書店でいじめられて上司と不倫関係に陥った可哀想な店員は、棚橋さんの空想の産物である。私は彼が歌舞伎座の裏手で経営する、主に演劇関連の書籍を扱う古書店で働いている、ようであった。あまりその実感は湧かないが、店につくと自然と書棚の整理をしたり、店の掃除をしたりと身体は動いたし、上司である棚橋さんは笑ってこうした雑談をしてくれたので、私はここにいてよい、ということなのであろう。それはそうと、古書店には棚橋さんの妄想で語られたように、新刊雑誌の準備の様な早朝から時間に追われるストレスもなければ、私と棚橋さんと男二人だけであれば、煩わしい人間関係もなく、おそらく不適切な恋愛関係に発展する恐れもないので、一見理にかなっているようで、その実、まったく意味不明である。髭面で額に玉の汗を浮かべながら、ネット通販の梱包をする棚橋さんが、いじめられて上司と不倫をして、挙句ゼクシィを切り刻むとしたら、それは滑稽でしかない。

 店は概ね暇であった。仕方がないので引き続き、棚橋さんの妄想を聞き、お昼には近所につけ麺を食べに行き、だらだらと書棚の整理をする等しながらすごしていた。歌舞伎座の公演は日に三部行われているので、一部と二部の間、二部と三部の間に、開演前や終演後のお客が立ち寄ることを狙うわけだが、春秋のすごしやすい時期であれば観劇の前後に、古書店芸談本でも漁ろうかという人がいるのだろうが、この暑い盛りにわざわざ芝居小屋の裏路地まで、古書を眺めに来るというのは億劫なばかりか、高齢者の多い歌舞伎ファンには命の危険すらあるのだろう。

 そんな危険の暑さの中、店にやってきたお客の一人が、夢野さんである。午後には棚橋さんが買い取りに出かけてしまったので、私は一人で、冷房の効いたレジの前に座って、ぼんやり店の外を眺めていた。すると、浴衣姿の細身の老人がふらっとやってきた。私が軽く会釈すると、彼は何やら愛想よく笑いながらレジに近寄ってきて、棚橋さんは、と尋ねた。買い取りに出かけていると答えると、彼は夢野と名乗り、歌舞伎座の第一部『伽羅先代萩』を観た帰りに寄ったのだと言った。夢野さんは話好きのようで、何やらつい先日の銀座のお祭りのことを話し始めたので、私はそれを聞きながら、曖昧な相槌を打っていた。

 

■お祭り

 銀座八丁目に金春通りという通りがあるのをご存知でしょうか。ちょうど、玩具屋さんの博品館の真裏にあたる路地です。呉服屋や飲食店のある、銀座にはよくある通りですが、こちらはまだ、江戸の時代、能の金春流という流派の方のお屋敷があった場所でした。能には、現在五つの流派があり、その中で最も歴史があると言われているのが、この金春流でございます。

 そういった縁を元に、この金春通りで三十五年前から行われているのが、能楽金春祭りです。今夏は一週間ほど、能の写真の展示や公演を行い、最終日に当たった去る八月七日、金春通り上での、奉納能が行われました。

 雑居ビルの立ち並ぶ狭い路地に、赤い提灯がたくさんつるされ、昼間よりは多少涼しい風が吹くようになった夏の夕方、居並ぶ人々の頭越しに能を眺めるというのは、大変に風情のあるものです。能はもともとは能奉行と呼ばれる人の掛け声によって始められます。お能、始めませい、という命令によって始めるのです。今回はその役目は、中央区長が務められました。

 演じられていたのは一時間ほどでしょうか、ストーリーはあまり混み入ったものではなくて、祝祭性の強いものです。長寿や繁栄を願う舞が演じられたのち、最後は『獅子三礼』と呼ばれる、獅子が舞い遊ぶめでたい様子を表現した舞が演じられます。

 これは能『石橋』の後半の舞の、特殊演出バージョンです。『石橋』というと、歌舞伎では『連獅子』と呼ばれており、舞い遊ぶ獅子は二頭のイメージが強いのですが、今回はその特殊演出により三頭でした。これは本当に珍しいアレンジです。通りに設けられた、金春稲荷を勧請した祭壇に向かって白い頭の獅子が、通りの銀座方面、新橋方面、それぞれに向いて赤い頭の獅子が舞うのです。見事でございました。きらびやかな装束を着て舞う姿は美しゅうございますし、鼓や笛の音、そしてそれが都会の路地裏で演じられているという非日常性で、夢の様な心持になったことを覚えております。

 演能が終わって、お祭りはお開きになりました。私は祭壇をお参りすべく、舞台の代わりに敷かれたベニヤを踏んで、列に並びました。列の先には簡易な祭壇と、お供えの食べ物等が置かれております。列には若い外国人も交じっており、こうした無料の催しを通して、日本の文化が伝わるのは良いことだと思います。

 私の番が来て、賽銭を入れて二拝二拍手一礼、済ませて私が銀座線の銀座駅の方面へ歩き出し、ふと辺りを見た時でした。異様な大きさの男の姿を目にしたのは。その男は縦にも横にも大きく、つまり背は私よりも頭一つ分高く、腹はでっぷりとして厚みがあり、能楽師が着るような羽織袴を纏っておりました。年のころは、四十手前でしょうか。隣を歩くその男を、大きいなあとしげしげと眺め、いけないいけないと、ひと様のことをこうして見るべきではないと、目を背けました。

 それから私は、ほら、銀座線の改札の前に、ライオンというビアホールがあるのをご存知でしょう、そちらで軽くビールと夕飯を頂戴しました。するとどうでしょう、例の大男が後からやってきて、私と同じテーブルに着いたではないですか。もちろん、知り合いでも何でもありません。しかし、男は馴れ馴れしげに、話し始めました。

 

■書店

 「私は金春稲荷と言いまして、普段はビルの屋上から、この銀座の町を見守っているのですが、このお祭りの期間だけは、下界に降りてきて、町をぶらぶらするんですわ。ま、それも、今日でおしまい、また一年間、ビルの上に戻るんですけれどねえ。それで、おっちゃんに頼みがあるんですわ。私、森見登美彦ってえ作家のファンでしてねえ、ひとっ走り本屋に行って、彼の新作『熱帯』を買ってきてほしいんですわ。」

 男はそんな、にわかに信じがたい話をして、私のビールを勝手にすすりました。はあ、と、私が困惑していると、男はなおも、そしたらここで待ってるからあ、となおも頼んできます。まあ、本当に目の前の彼が神様だとしても、あるいは狂人だとしても、下手に刺激するよりは、本を買ってくるくらいで彼が満足するのであれば、それでよいかと思い、私はとぼとぼとビアホールを出て、駅から直結の通路を通って、GINZA SIXの蔦屋書店に行きました。作者名とタイトルを告げると、店員の女性はすぐに、その本が平積みされた場所に連れて行ってくれました。並べられた場所や冊数からするに、人気のある小説のようでした。私が、ところでこれはどういうお話なのですか、知人に購入を頼まれたもので……、と訊ねると、その店員もこの『熱帯』は読んでいないそうでしたが、彼女の友人にやはり森見登美彦のファンがおり、その人が語った、という小説の感想を教えてくれました。

 

■熱帯

 私の友人はある、小説家志望の女性です。今は日々の出来事や考えたことをブログに書いていて、それで文章を書く練習をしているとのことでした。彼女とは会社の同期で、とても気が合った。気に入った本を教えあったり、貸し借りしたり、本当に書籍が好きな子でした。だけど、あるお店に異動になった時に、ずいぶんそこのバイトさんにいじめられたらしくて、それにお店の店長ともトラブルがあったとかで、急に仕事を辞めてしまいました。しばらく私も連絡が取れなくて、メールをしても、返事をくれなかったのです。

 そんな私も三十手前で結婚して子供ができて、その書店をやめて、育児に専念していたのですが、子どもが小学校に上がり、手がかからなくなったのでパート先を探したとき、たまたまこのお店がバイト募集をしていて。会社は違うのですが、また書店員になるなんて、私もよっぽどの本好きなのです。それで、そういえば彼女はどうしているだろうって、十年ぶりくらいで連絡してみたら、返事が来て、それが半年前のこと。それ以来、たまあに、会ってお茶して、お互いの生活の愚痴を言い合って、ようやく、当時の彼女に何があったか、教えてもらったんです。辛かったんだなあ、もっと力になってあげたかったなあ、って思いましたよ。それで、そのお喋りの中で、彼女は『熱帯』のことも話していました。

千一夜物語は知っているかな。アラビアンナイト。それをモチーフに、作者森見登美彦自身や我々のいる現実と、物語、物語のなかで語られる物語、物語のなかで語られる物語のなかで語られる物語、記憶、昔話、夢、それらの次元を行き来して、そして色々な人の視点を経由して、本について、物語について、語られる物語なの。

 つまりね、はじめは主人公は作者自身なのだけど、彼は一冊の本『熱帯』という幻の小説のことを考えていて、偶然にその本を持っている女性を見つける。そこで彼女に話を聞くと、ここからは彼女の主観で物語が進む。やがて話は彼女の知り合いの男性の手記となり、男性の主観での物語が進み、という作りね。

 物語を読むとき、その物語世界にもっといたいと、思うことがあるじゃない。私はそういう気持ちにさせてくれる物語が好き。でも、結局は今いる現実に戻ってくるわけじゃない。だけど、その戻ってきた場所は、本当に本当の現実世界なのかしら。そこもやはり、ある意味での物語世界ではないかしら。それとも、反対に物語を読んでいるとき、没頭したその世界は、本当に物語に過ぎなかったのかしら。実はそちらこそ現実ではなかったのでは。そんなことを、考えさせられたなあ。

 って、これじゃ 、全然あらすじとか、わからないよね。今度、この本のこともブログに書くから、良かったら読んでみてよ。」

 そう言って、彼女に教えられたのが、このURLです。

 

■亜熱帯

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 汝にかかわりなきことを語るなかれ

 しからずんば汝はこのまざることを聞くならん

 

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熱帯

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