哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

能楽師の娘のこと

能楽師の娘のこと

  先日、TBSの世界ふしぎ発見!での「万葉集~千年の時を超える日本人らしさの秘密」において、大倉流小鼓方能楽師人間国宝、大倉源次郎師のご息女である、大倉未沙都さんがミステリーハンターとして出演なさっていた。2013年に同番組の1300回記念において、公募でミステリーハンターに選ばれて以来、二度目の出演とのことである。

 内容も面白かった。古い日本語では、スタイルの良い胸が出てウエストが細い女性のことを、須軽と例えたそうだが、この須軽は似我蜂(じがばち)という蜂のことだそうで、確かにこの蜂は腰が括れたフォルムをしている。また奈良県の吉野は、壬申の乱において、天武天皇を匿いともに戦ったとのことで、彼にとって大切な地であったそうなのだが、吉野の窪垣内(くぼがいと)は、天武天皇の追手の犬を退治したとの伝統から、以来、犬禁制の地なのだという。他にも昔の日本人が恋を孤悲と表記していたこと等、勉強になった。

 ところで、大倉未沙都さんに興味を持って彼女の公式Webサイトを拝見すると、特技:小鼓、乗馬、との記述を見つけた。小鼓は一般的に胴は桜の木で、皮は子馬の柔らかい皮を使う、と言われている。馬にまたがる美女が、突如、群れの中の子馬の首を落とし、皮を剥ぐサディスティックな光景が浮かんだ……。ちょっといいかもしれん。

 私は乗馬をする人間で、なんとなく馬肉は食べられないのだけれど、彼女は生きた馬と接した後で、小鼓の皮を見て、あーあとか思わんのだろうか。とっても残虐な、能楽師の娘のお話でした。 

okuramisato.com 

能楽師の娘のこと

  ということを書きたかったわけではなくて、今回書きたかったのは、小説『能楽師の娘(波多野聖、角川書店)』のことである。この作品を私が知ったのは、能楽師の宮内美樹氏が解説を執筆なさっており、その旨をFacebookで告知されていたためである。解説からは師が能楽に向ける熱い思いがひしひしと伝わってきてとても良い。

 さて、そんな本作であるが、能楽についての小説か、と言うとそうでもない気がする。主人公である左近綾は、明治期に、代々の能楽師の家系に生まれる。当時は女性が舞台に立つことを許されていない時代であったにもかかわらず、彼女は父親の反対を押し切って、能の稽古を始める。そのため、能楽を重要なモチーフとしては取り上げているのだが、話は日本を飛び出して1920年代のパリへ、能楽にとらわれず美とは何か、というテーマに発展し、また能楽がテーマとする、生と死の境界、男と女の両義性、と言った点に話が及ぶ。そのため、どっぷり能の世界を知っている人はもちろん、そこで語られている概念が能でいうどういう状態か、理解しながら楽しむことができるし、反対に能を知らない人でも、まったく未知のものであった能楽を、西洋の芸術の持つ美しさと対比させながら、へー、と読むことができるのではないかと思う。

 さて、それでは本書が具体的にどういうストーリーで進むのか、というところであるが、物語はある出版社に勤めていた編集者、安西佳鶴子の定年退職の日から始まる。彼女の担当した美と芸術をテーマとした雑誌”芸術美報”に纏わる仕事で、滋賀県N市の寺院の尼である比丘尼を取材した際のことを回想する。能に詳しい方にはわかるかと思うが、この物語は比丘尼(左近綾)というシテが、ワキである佳鶴子に自らの半生を物語るという構造をとる。

 物語の前半は、父の羽衣の序の舞を見て能楽を志した、若き日(女子英学塾、現津田塾大学に通う女学生)の綾が、芸術学の教師で英国人であるアトキンソンのサロンで、二人の秀才、高見友則と重光伊織に出会い、交わる話である。やがて、綾は自分のことを徹底的に愛してくれ、そしてそれを言葉にしてくれる男性と結婚することになる。そして物語の後半はパリに渡り、嵯峨野侯爵夫人浪子との交わりの中で、綾はダヴィンチの「岩窟の聖母」や「サモトラケのニケ」といった海外の美術作品に触れ、能とその他の作品に通じる、美の本質を知っていく。そして比丘尼はこうした話を語って、能のシテがワキ(多くは僧)に愚痴をこぼして、最後に成仏するように……。

 途中、こんな話が出てくる。綾が能をやめた理由である。曰く、能の主眼は、あの世とこの世の行き来である(物語では、1826年にできたというパリのパサージュ、ギャルリー・ヴェロ=ドダが黄泉の国の入り口と表現される。このパサージュでエリック・サティヴェクサシオンを聴き、世阿弥による能の美しさ、一瞬に永遠があり、永遠に一瞬があることを想起する。)。その行き来、両義性は、男の能楽師が女の能面をかけて舞うことにあり、ある種そういった両性具有の美が能の骨子である。だからこそ、能を大成したのは、男性的な要素、女性的な要素、そのいずれも兼ね備えた、美少年が、世阿弥がなしたのである。と、こういう発想の元、物語が展開される。

 そういった芸術、美について、物語では度々、能の魅力を表現する言葉として、丸く美しいもの、といった表現がなされる。また芸術、美と対極にあるものとして、イントレランス(不寛容)を挙げている。今は不寛容の時代だ。寛容の精神が美の器になる、この筆者の主張は、多分に感覚的であるが、わかる気がする。そしてそれは、寛容な人が美を知覚できるのか、美に触れ続けることで、寛容が育まれるのか、その両面があると思う。

 だからほら、こんなブログも、寛容な気持ちで読み続けていただき、そうしたら何か美しいものに出会えるかもしれませんよ?

 

 

能楽師の娘 (角川文庫)

能楽師の娘 (角川文庫)

 

 

 ところで、この小説で綾が育った能楽堂は、神田明神下にあるという。能を描いた漫画『花よりも花の如く』においても、主人公の家の能舞台は神田・淡路町にある。神田に能楽堂、モデルとなる何かがあったのだろうか。それともそんなものがないからこそ、神田にある能舞台、という設定が使いやすいのだろうか。どっちだろう。

花よりも花の如く (1) (花とゆめCOMICS)

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