哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

井筒のこと

f:id:crescendo-bulk78:20191006113215p:plain井筒のこと

 能の有名な曲の一つに、井筒という曲がある。今日はそれについて話をしよう。

 この曲は平安初期に成立した歌物語である、伊勢物語の23段(および大和物語)にて語られる、筒井筒の話に取材している。伊勢物語で、昔、男ありけり、と語られる昔男は、在原業平とされるが、この筒井筒は在原業平や貴族社会ではなく、田舎の男女の物語である、らしい。取り敢えず、調べてみたところによると、そういうことらしい。ただし、ここからまた混乱するのだが、この能の曲目の井筒では、在原業平の妻である、紀有常の娘がシテ(主人公)となる。

 能のあらすじだが、在原業平建立とされる、大和の在原寺を訪れた諸国一見の僧(ワキ)  の元に里の女があらわれ、在原業平と紀有常の娘が幼馴染みで井戸の周りで背比べをした思出話等をし、自分こそ紀有常の娘の亡霊であると告げて、去っていく。後場は僧の元に、紀有常の娘が在原業平の形見の衣等を着て現れ、井戸の水鏡に自らの姿を映して、在りし日の業平を懐かしむ、等といったストーリーである。

 法政大学能楽研究所の竹内晶子先生は、「世阿弥の月ー〈融〉〈姨捨〉〈江口〉〈井筒〉にみる反復と混淆ー」(天空の文学史 太陽・月・星(鈴木健一編 三弥井書店)において、世阿弥の作品に登場する月のモチーフが前場後場、過去と現在を対称的に描き出したり、時にそれらを混ぜ合わせたり、という効果を出していることを語り、その一例として井筒をあげている。

 井筒の月は、二人の思い出の、女が業平の面影を映し見る、井戸の水鏡に現れる。能ではしばしば、水(湖や盥の水)に月を映して愛でる。 

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  そういえば、上の記事の野守についても、鬼人が持つこの世の隅々を映し出す鏡のことを書いている。これは昔の日本人や彼らに影響を与えた国の文化においての、美意識と言ってしまえばそれまでであるが、とはいえ彼らは水や鏡に映る向こう側の世界をいかに見て、何を思ったのだろうか。

 恐らく、古代の昔から鏡というものがあり、そして湖の水面に映る人間が、己の似姿であることは、当然に能を作った室町の人々、それ以前の平安、鎌倉、そしてそれ以後の江戸の人々に至るまで、理解していたものと思われる。脱線するが、歌舞伎の忠臣蔵で、お軽が大星由良之助の手紙を鏡を使って盗み見るシーンがあるが、あんなもん見えるわけないだろ、と思う。閑話休題、そうして鏡の作用についてはきちんと彼らが承知していながら、それでもなお、鏡や水などに現世の似姿を映す行為に何らかの魔力を感じていたのではないか、と思うのだ。

 我々は今、カメラを使って写真を撮ることで、ある一瞬の人や物を、永遠に記録することができる。インターネットを使えば、遠く離れた場所の映像や音声を、リアルタイムで視聴することができる。自分の外見や発する音が、自分を離れて遠くのディスプレイに表示され、光沢紙に印刷されることが、あまりに普通な世界に生きている。しかし、この物語が成立した当時は事情が異なったはずである。光が作り出すもう一つの現世と、自分が存在する世界と、それをつなぐゲートを神聖視したり、あるいは恐れたり、そういう感情があったのだと思う。

 いずれにせよ、この能の後場では、紀有常の娘の亡霊は、業平の恰好をして登場し、井戸の水に映る己の姿に、在りし日の夫の存在を感じる。鏡の向こうの世界は、自分が見たいものが存在する世界、なのかもしれない。

 筒井筒の女は前述したとおり、男とは幼少から仲が良くたけくらべをする等していた。男が他の女のところに通っていても、その道行きを案じて、ただ待っている健気で一途な女性である。そして男にもそんな女の気持ちが通じ、きちんと女の元に帰っていく。

 

 誰か私とたけくらべをしませんか?

 

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天空の文学史―太陽・月・星

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