■はじめに
■&夏・抄
●解(説/脱)
「別にハイネケンだっていいんだけどさ、きょうはバドワイザーなんだ。理由は聞くなよ。わかるだろ?」
「わからないわ、どういうこと?」
「わかれよ」
「わからないもの」
「なあ、つまりさ、それがクールなんだ」
「暖房つける?」
「そうじゃない、理屈ではなく、感じるんだ。ドント・シンク、フィール!」
「無理よ、理屈で語れないことは他人には了知不可能なのだから」
「こいつはヘビーだ」
「何が重いの?」
「なんでもないよ。つまりさ、空気を読めってことさ」
「窒素、酸素、二酸化炭素……」
「ノー、そういうことじゃないだろう」
「冗談よ」
「君がふざけるとは思わなかったよ」
「二人で空気を読めっておかしいわよね?」
「どうしてだい、ハニー?」
「だってあなたの言う空気って、多数派の暗黙の上の了解のようなものでしょう?」
「なるほど」
「まあ、大勢いても空気を読めっておかしな言葉だけどね」
「そうかな?」
「飲み会で社長が二次会に行こうと言う、十名の社員は全員早く帰りたいのに、空気を読んで、二次会に行くことになる」
「その場合両方の意味があるね。つまり、みんな嫌だけど空気を読んで社長に付き合おう、というのと、後日社員同士で、あの社長、空気読めよ、って愚痴るのと」
「そう、つまるところ空気は人の数だけ存在するといってもよいのではないかしら?」
「わかった、認めるよ。確かにバドワイザーとサンバイザーは少し似ているよ」
「わかればいいのよ、ご飯にしましょう」
「何がいいかな?」
「お肉が余っているから、使っちゃわなきゃ。それに玉葱、人参、馬鈴薯、カレールウがあるわ」
「僕はラーメンが食べたいな」
「空気読めよ、このクソが!」
下の階の夫婦の会話にいい加減飽きた、アンディー・ナッツは、部屋の窓ガラスをピシャリと閉める。ストーブを引き寄せ、ロッキングチェアに腰掛けると、毛布にくるまり、ノベルを読み始める。その本で作者は自分と世界が一体であり、また世界と自分が一体であるようなことを述べる。テーブルからヨックモックのシガールを取り上げると、それを、半分ほど食べる。そしてそのハーフシガールに語りかける、世界が一つなら何故人間は、しゃべる?ハーフシガールの穴を通して、壁にかけられた絵画を眺める。小さく描かれているはずのセイウチが、拡大されて見える。それにも飽きて、さらに半分シガールを食べる。クオーターシガールをさらに半分。半分、半分、半分。こうしてアンディーはシガールを半分ずつ食べ続け、シガールは無限に分解可能であるから、その作業は永遠に続いている。永遠に作業するなかで、アンディーは無限に思考をすることができる。そして無限の世界の生成と消滅を目にする。シガールの粉、一粒一粒に、一つずつ宇宙がある。世界の全ての星々が砕けちって、シガールの粉、一粒一粒になる。そしてそれらは互いに結び付き、アンディーを取り囲むように、無限大のシガールの形を結ぶ。巨大なシガールの円筒の真ん中の暗闇の中で、アンディーは世界と自分の不一致を感じ、アンディーは世界からの疎外を知り、アンディーは世界には通じない自分だけの理屈を、しゃべる。アンディーはシガールと、繋がろうとする。自分が世界と一体であることを、説明しようとする。自分と世界のことを言葉にすればするほど、アンディーとシガールは離れていく。アンディーは悟る、自分と世界こそ、半分に割った片割れ同士なのだ、と。ある根源が半分に分かれ、アンディーとシガールが生まれる、そしてアンディーは半分に半分に、また半分に分かれている。バラバラになったアンディーとシガールから、また無数の世界が生まれた。
アンディー・ナッツの遺体が見つかったのはその翌日であった。全身がバラバラに切断され、粉々になったシガールが、身体中を覆っていた。階下にすむ女性が、彼女はアンディーの交際相手であり、彼女にはミュージシャンの夫が同居していたのであるが、その夫を仕事に送り出したあとにアンディーの部屋を訪ねて、見つけたのだ。そして近所に住む、推理小説家にして、探偵の安藤夏彦が調査に乗り出したのだ。
「警部、関係者の資料はこれで全てですか?」
「そうだよ、安藤くん、わかるかね?」恰幅のよい警部は顎にてをあて、口髭をいじりながら、尋ねた。
「そうですね、犯人はこの階下に住む夫ですよ。何しろ動機がはっきりしている。妻の不倫相手ですからね」パッと、警部の顔がほころぶ。
「なるほど、彼を逮捕しよう」
「それにこの女、階下に住む妻も怪しい。彼女は何度も不倫関係を解消しようと、アンディーに持ちかけていたが、拒否されていた。その事は階下の部屋で夫が盗聴していた、レコーダーの記録で明らかだ。殺害して関係を絶とうとしても不思議はない」
「冴えているぞ」と、警部は人差し指で安藤をさしながら叫ぶ。
「それにこの男、妻の新しい不倫相手。もとの不倫相手を消そうとしたのかも」
「逮捕だ、逮捕!」どたばたと部下の捜査員たちが、捜査本部を駆け出ていく。
「それから妻の昔の不倫相手、アンディーを殺して、もう一度妻と不倫関係になりたかったのかも」
「そうに違いない」
「さらに怪しいのは、この赤の他人。赤の他人がこのような小説に登場しようと思ったとき、殺人事件の犯人になるでもしないと、物語に絡めませんからね。彼も怪しい」
「まだいるんじゃないか?」
「同じことは私にも言える。意図的に事件を起こして、登場の機会を伺ったに違いない」
「よし、君もあとで逮捕しよう」そう言って警部は安藤の肩に軽く触れた。
「それから警部、最近事件が少なくて退屈していたでしょう?」
「わしも逮捕してくれ」振り返って、残っていた捜査員に訴えかける。
「それにアンディー、そもそも彼に自衛の意識があれば、もっと対策していたはずだ」
「よし、お前ら逃がすなよ!」と、警部はさらに捜査員に指示を出した。
「さらに、この世の創造主、人間を簡単に死ぬようにした彼は重罪だ」
「よし、ふん縛ってくれるわ」
「そしてこの世の全ての人類、彼らはみなアンディーの死を防げた可能性があるのに、しなかった」
裁判の結果、死んだ人間は裁けないということで、アンディーだけは無罪になった。全世界の人々を収監できる牢屋はなかったので、とりあえずこの世界を一つの檻と考えることになった。そして習志野市の南端に檻の外と看板を立てて、柵で囲った。そこにアンディーの遺体を放り込んで、牢屋の外に悪人はいなくなった。アンディーはこの世の中でただ一人の無罪人として、静かに眠った。