哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

宗八③

■宗八③

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 ●Kritik der praktischen Vernunft

 スマートフォンからけたたましく鳴るアラーム音が聞こえた。手探りで端末を探して、時間を確認する。目覚ましをセットした時間から、30分程度が経過しているのがわかる。俺が意識がなかった間、周りの部屋の住人はスヌーズで断続的に鳴り続ける俺のアラーム音を、30分も聞き続けたわけだ。

 夢を見ていた。遠い昔の夢だ。俺の名前は宗谷八郎、実家は寺であったが、僧侶であることを嫌い、家出して、上京した。いまはフリーターをしながら、ロックンローラーを目指している。

 僧侶を目指して、剃髪して出家する人は多い。俺のように、僧侶が嫌で家出する人はどれだけいるだろう。

 ベッドの中で、隣にいるはずの希の姿をまさぐる。俺の手は空を切るばかりだった。そうか、もうお前はいないのか。寝惚けた頭がようやくハッキリしてきて、群馬県の実家を出て今日に至るまでの道のりを、そして希を喪失するまでの経緯を、きちんと思い出した。それと同時に、自分のいま置かれた状況も、いっぺんに飲み込めてきた。

 30分程、目覚ましをセットした時間より遅く起きたということは、その分、速やかに支度をする必要がある。いや、必要があるかどうかは、また判断が分かれるところではあるのだが、つまり勤務する洋食店の店長に大声で怒鳴り付けられるのが嫌なら、急いだ方がよい、ということだ。

 風呂場に行き、熱いシャワーを浴びる。モテそうだと思って、顎髭を伸ばしてみたが、鏡の中では浮浪者が俺に向かって笑っている。俺はロックンローラーだから、革ジャンを着て出発する。小銭を引っ付かんで革ジャンのポケットに押し込み、アコギのケースを肩にかけて、器用にママチャリに乗る。10分もこげば、俺の勤務する洋食店に到着だ。

 

チーズINハンバーグ 、Bドリンクセットでよろしかったですかぁ?」

 相変わらず、女子大生のアルバイト、花子の声はアニメのキャラクターのようで可愛らしい。俺は勤め先の洋食店では、客の使い終わった食器を、食洗器の中にセットしてボタンを押す、専門的な仕事を任されている。俺が勤務している時間は、この食洗器には誰も触らせない。俺が休みの時だけ、後輩アルバイトの吉田がこの機械を操作できる。それだけ、熟練の技がいる仕事であり、店長からは勤務中は絶対にこの機械の前を離れるな、くれぐれもホールには出てくれるなと、きつく言われている。おそらく、もしもの時に俺が機械の近くにいないと、対処が困難だからだろう。

 今日も結局、店長に意味の分からないことで怒鳴られた。

「ハチ、何度言ったらわかるんだ。裸に革ジャンで出勤するな、何か履け」と、女房と上手くいっていない八つ当たりをする店長はつくづく滑稽だ。どうせ勤務中は制服なのに、通勤時まで必要以上に着飾る意味が分からない。何しろ、俺はロックンローラーだ。適当に店長をいなして、今は俺の食洗器の前に陣取って、汚れ物を待ち受ける。さっき、ホールの花子が食器を下げにきたから、満面の笑顔を返してやったが、可愛いことにウィンクを返してきた。もっとも、不器用に眉をひそめたようにしか見えなかったが。俺のためにできないウィンクを無理にしようとしてくれたのだろう。可愛らしい限りだ。

 今日はクリスマスイブ、アベックたちは夜に、もっと高級でおしゃんな店に行くのだろう。うちは洋食店といってもカジュアルな店で、俺の今日のシフトは昼間なので、客層は普段と大して変わらず、近所の子連れの主婦たちが幅を利かせている。それに徘徊老人だかなんだか、とにかく行き場のない老人もちらほら。俺はそれを厨房の小窓から覗き見て、心から憐れみを覚える。一人は仕事を退職して70歳くらいの男であろうか、おそらくパチンコ屋とうちしか行き場がなく、うちに来てもドリンクバーで3時間も居座る、寂しいやつだ。メリークリスマス、俺は心のなかで奴にエールを送った。

 

 仕事が終わったのは、夕方5時であった。大学から吉田が来て、ハチさん、お疲れ様です! と、声をかけてきたので、食洗機を譲った。イブの夜に仕事なんて、どうせモテないのだろう。お先! と奴に返事をして、制服を脱ぎ、革ジャンを着て帰ろうとしたら、店長が制服のスラックスを着て帰るようにと命令してきた。シフトの時間内は確かに奴に従うが、プライベートの服装にまで口を出してくるとはとんだパワハラ上司だぜ、と思いつつも、まあ奴の顔をたてて、言われた通りにしてやることにした。

 ママチャリを軽快に走らせた俺は、駅の近くのガード下に到着した。地べたによっこらせと座り込むと、自分の前にアコギのケースを置いた。ふたを開けた空っぽのケースは、もちろんおひねりをもらうためだ。俺はアカペラで歌い始めた。俺はロックンローラーだ。こうしている時こそ、本当の俺で、食洗器を前で腕を振るう料理人の姿は、世を忍ぶ仮の姿だ。冬の寒さと、そばを通り過ぎる勤め人たちの視線の冷たさは、革ジャンの隙間から俺の胸を刺した。しかし、その痛みこそが心地よい。俺はロックンローラーだ。この世界に一人、たった一人であっても反抗する。反抗して、反抗した先には、愛と平和が待っているはずである。

 【後】

 まあだだよ。