哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

宗八④

■宗八④

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 ●Versuch über die Krankheiten des Kopfes

 宗像新八は文章にひと段落をつけてノートパソコンから目を離した。これで、とりあえず形になった。そう、多少の安心感はあったし、それは形にならないよりは、不完全でもとりあえず形になっていれば、できましたと言えるわけで、全然良いということを理解しつつも、しかし、自分の描いた理想には程遠い、ということを新八はきちんと理解していた。こんなものを書きたかったんじゃない、そういう焦りと自身に対する落胆、それもある。しかし一番新八の心をかき乱しているのは、現在の自身の状況であった。

 少し伸びて目にかかるようになった黒髪をかき上げて、デスクを離れる。水差しからグラスに水を注いで飲み、レースのカーテンを開けて、眼下に夜の新宿を臨む。ピカピカに磨き上げられた窓ガラスには白いワイシャツ、黒いスラックスをラフに着こなした、細身の男、宗像新八と呼ばれている男が映っている。こんな時間か、外がここまで暗くなっているとは思わなかった。そう思いながら、新八はホテルの食事会場へ向かう。

 新八が缶詰になって執筆している部屋は、ホテルの39階にある。高層ビルが立ち並ぶ新宿の町にあっても、その高さは上位だ。かつて、といっても半世紀ほど前のホテル竣工直後のことだが、ビルとしては日本一の高さであったこともある。時代は流れ、より高いビルは、いくつもできた。日本一でなくなった時はそれなりの衝撃であったのだろうが、それ以後は二番目だろうと十番目だろうと、差異はない。新八はエレベータで地階へと降りていく、そこにはビュッフェ形式の食事会場があり、そこで夕食をとるのだ。

 食事会場は比較的静かであった。今日は執筆に熱中しすぎたあまり、食事時間終了間近になってしまったせいであろう。意図的に混雑を避けたと思しき老夫婦が、目も合わせずに甘鯛のポアレを食べているのを眺めながら、新八はうな重を食べていた。重箱の蓋を取ると、たれのあまじょっぱい匂いが鼻を突き、新八はそれにかぶりつく。昨日までは、うな重など見当たらなかった。会場の壁に据えられた木製の棚、それも長身の新八の目線よりも上の方。うな重はそこにひっそりと、熱々で置かれていた。まるでその夜そのタイミングに、新八が見つけることをわかっていたみたいに。

 昨日と違う今日、このホテルではそれが珍しい。世界の何かが、変わったのかもしれない。このホテルは永遠を生きているホテルである。

 新八は新宿から私鉄で15分ほど離れた駅の、近くにあるファミリーレストランで、店長をしていた。いや、今も店長であるはずである。少なくとも、その役を免じるという連絡は、受け取っていない。

 入社して10年ほど、真面目に働いてきた新八にとって、その店は初めて店長を任された大事な職場である。店には後輩の社員もいれば、多種多様なアルバイトもいる。学生、フリーターと言うレッテルはさして意味がない。彼らは彼らで一人一人違う。フリーターでも熟練者は、後輩の社員よりも、いや常連客との関係性を考えると時に自分以上に、仕事ができると感じさせる者もいれば、家業を継ぐことを嫌ってミュージシャンになることを夢見て上京してきた、と言えば聞こえはいいが、新八よりも年上で、どのバイトも長続きせずに新八のファミリーレストランに流れてきた者もいる。学生であっても同様に、十人十色だ。

 そんな部下たちをまとめる仕事は、楽しかった。辛いこともあったが、楽しかった。それでその辛いことが無くなれば、理論上は楽しいことだけになるはずであった。辛いことは、文章を書くことで消えていく。例えば悩みを家族に話すだけで気が楽になることがある。セラピストでもいい。友人でも。誰かに何かを話すことは、それだけで気晴らしになるし、自分の感じている不安について話して、それだけでいいのだ。解決策を教えてほしいわけではなく、ただそれを吐き出したいということが、それだけで気が楽になるということが、そういうことが人間にはあるのだ。新八の場合は、ブログであった。

 ブログに彼の感じたこと、感じなかったこと、あったことなかったこと、そんな由無し事を書きつくることで、彼の辛いことは消えていった。消えるなら、徹底的に消さねばならない、A型の新八はそう思った。辛いことが発生するたび、いや、もはや発生しなくとも、彼はブログの入力画面を開いて、文章を書きつけた。新八の中から、何かが消えていった。

 小規模な新八の消失、そう、はじめは辛いことが消えて行くことに気を取られて、楽しいことまでも消えていることに気が付かなかった。そしてきっとそれに気が付いてからも、気が付かないふりをして新八は、ブログを書き続けた。

 そんなある日、新八は新宿のホテルに宿をとった。ファミリーレストランの店長という仕事上、なかなか連休は取れないのだが、その日は部下とのシフト調整の影響で、三連休であった。家にいるだけでは書けない、大作がかけるのかもしれない、だから世の作家たちはホテルに缶詰になるのかもしれない、新八はそう思ってホテルに連絡をしてみたのだ。

「はい、西浦和西船橋ホテルです」

「すみません、間違えました」予め部下に、新宿の少しおしゃんなホテルの電話番号を調べてもらい、まあその電話番号を教えてくれた吉田は確実に、新八が女を連れ込むと思っていたようだが、とにかくここが絶対に良い、と言って電話番号を教えてくれた。聞き覚えのない地名を聞いた気がして、慌てて電話を切った新八は、改めて電話番号に間違いがないことを確認してかけ直す。しばらく後、同じ女性の声がした。

「はい、西浦和西船橋ホテルです」

「あの、そちら新宿の?」

「さようでございます、西新宿にございます、西浦和西船橋ホテルでございます」

「つかぬことを伺いますが、どうしてそう言ったホテルの名前にしたのですか?」

「創業者である、浦和賀安が千葉県の西船橋に初めて開業したのが、浦和西船橋ホテルでございます。こちらは西麻布や西宮などからたくさんのお客様にご来館いただき、そのお客様方の後押しもあって、西船橋から西方にあるここ西新宿の地に二号館として、当ホテル、西浦和西船橋ホテルはオープンいたしました」

「なるほど、よくわかりました。え? 予約? いえ、今日のところは結構です。失礼いたしました」そう言って電話を切った新八は、吉田の時給ダウンを検討しながら、ネット検索で真っ先に出てきたやはり西新宿にあるホテルに部屋を抑え、出かけていった。休みの初日は昼まで自宅の片付けをして、午後のチェックインから、翌々日のチェックアウトまで、じっくり執筆活動に励むのだ、そう思っていた。

 

 夢か、そう思って新八は目を覚ました。コンコン、と部屋の扉を叩く音がする。どうぞ、と声をかけると、客室係が入ってくる。

「宗像様、おはようございます。ホテルで缶詰シングルプランの特典の、朝の缶詰ルームサービスでございます」

「ああ、ありがとう。夕食は、食事会場だったね?」

「はい、さようでございます」

「ありがとう、伺うよ」そう言って、新八は缶詰を受け取る。さんまの蒲焼きだ。部屋の冷蔵庫に入っていたカップ酒を取り出し、ちびちびやりながら執筆を始める。いまの新八のように、ホテルに泊まってブログを書き続ける男の話がちょうど佳境だ。いや、そもそもブログとはこんな作り話を延々とする場所なのか? まあいい、そんな疑念を脇に押しやって、新八は執筆を進める。途中、備え付けのチョコレートを摘んだりしている内に腹が満たされてしまい、本来であれば昼食を食べに出るはずであったのだが、しそびれてしまった。ふぅっと、ため息をつく。

 新八は文章にひと段落をつけてノートパソコンから目を離した。これで、とりあえず形になった。そう、多少の安心感はあったし、それは形にならないよりは、不完全でもとりあえず形になっていれば、できましたと言えるわけで、全然良いということを理解しつつも、しかし、自分の描いた理想には程遠い、ということを新八はきちんと理解していた。こんなものを書きたかったんじゃない、そういう焦りと自身に対する落胆、それもある。しかし一番新八の心をかき乱しているのは、現在の自身の状況であった。

 少し伸びて目にかかるようになった黒髪をかき上げて、デスクを離れる。水差しからグラスに水を注いで口に含み、レースのカーテンを開けて、眼下に夜の新宿を臨む。ピカピカに磨き上げられた窓ガラスには白いワイシャツ、黒いスラックスをラフに着こなした、細身の男、宗像新八と呼ばれている男が映っている。こんな時間か、外がここまで暗くなっているとは思わなかった。そう思いながら、新八はホテルの食事会場へ向かう。

 新八が缶詰になって執筆している部屋は、ホテルの39階にある。高層ビルが立ち並ぶ新宿の町にあっても、その高さは上位だ。かつて、といっても半世紀ほど前のホテル竣工直後のことだが、ビルとしては日本一の高さであったこともある。時代は流れ、より高いビルは、いくつもできた。日本一でなくなった時はそれなりの衝撃であったのだろうが、それ以後は二番目だろうと十番目だろうと、差異はない。新八はエレベータで地階へと降りていく、そこにはビュッフェ形式の食事会場があり、そこで夕飯をとるのだ。

 食事会場は比較的静かであった。今日は執筆に熱中しすぎたあまり、食事時間終了間近になってしまったせいであろう。意図的に混雑を避けたと思しき老夫婦が、目も合わせずに甘鯛のポアレを食べているのを眺めながら、新八はうな重を食べていた。重箱の蓋を取ると、たれのあまじょっぱい匂いが鼻を突き、新八はそれにかぶりつく。昨日までは、うな重など見当たらなかった。会場の壁に据えられた木製の棚、それも長身の新八の目線よりも上の方。うな重はそこにひっそりと、熱々で置かれていた。まるでその夜そのタイミングに、新八が見つけることをわかっていたみたいに。

 うな重を食べ終えた新八は、少し外の空気が吸いたくなり、フロントのある1階に上がると正面玄関から外に出た。出てみてわかったことだが、フロントの前の出入口は広々とした車寄せがあって、いかにも新宿の町に開けていそうに見えて、その実車寄せにやってくる高級車たちはホテルの側面の道を通ってやって来ていて、その正面玄関の真正面は柵で町と隔てられていた。ふうんと思って新八はそのホテルの右側に伸びる、脇の道を少し歩いてみるが、外に通じる柵の切れ目よりも先に、通用口のようなホテルの中に戻る扉に着いてしまい、まあいいかと思って中に戻る。その通用口を入るとすぐ向かいに、古いアーケードゲームが数台、誰もいないのも関わらず賑やかな音を立てていて、新八はなんだか気持ち悪くなって、そそくさと自室のある39階に戻って、着替えもせずにベッドに倒れ込んで、気が付くと眠ってしまっていた。

 

 コンコンと部屋の扉を叩く音で、新八は目を覚ました。布団から起き出し、どなた、と声をかける。

「宗像様、おはようございます。ホテルで缶詰シングルプランの特典の、朝の缶詰ルームサービスでございます」

 そうだった。文豪気取りでホテルに缶詰になりたいと、職場の同僚の吉田に相談したところ、勝手にそんな妙なプランで部屋を抑えられてしまったのだ。吉田と新八は新宿から私鉄で15分ほど離れた駅の、近くにあるファミリーレストランでアルバイトをしている。もっとも真面目に大学で行政法を学び、公務員になろうとしながら、忙しい合間を縫って学費を稼ぐ吉田と、大学中退ぎりぎりのところを日々小説を書きながら、一篇の作品に仕上げることができず、文芸雑誌への応募も叶っておらず、ろくに授業に出ずにアルバイトに明け暮れる新八とでは、同じと言ってよいのか分からなかったが。新八は自らのホテルの部屋着、あの薄水色の入院患者の様な恰好を見て、流石にこれはと思い、すみませんが、あとでフロントに取りに行きます、と答えた。

 顔を洗って、着替えのシャツ、スラックスに着替えるとデスクに向かって、ノートパソコンを開く。ここであれば、自身の取り組んでいる小説を完成させることができるかもしれない。そう思って二泊三日でホテルに滞在することにし、確かに初日の昨日はかなりの文章を書いたのだが、書けば書くほど、書くべきことは広がっていき、それはさながら、宇宙の端を目指して進むほど、それ以上のスピードで宇宙が膨張し続け、決して宇宙の端には追いつけないが如く、新八は大団円に向かって歩いていながら、決して大団円に近づいているわけではなかった。

 昼頃、朝飯抜きで書き続け、やはり書けば書くほど広がり続ける風呂敷に嫌気がさした新八は、缶詰を受け取りに、そして、それに加えて何か昼食を、ホテルの外のコンビニにでも買いに行こうかと、1階に降りていった。フロントの女性に声をかける。

「朝、缶詰を受け取りそびれてしまって……、3948の宗像ですが」

「はい、宗像様、こちらが本日のさんまの蒲焼きの缶詰でございます」

「ありがとう、ところで館外のコンビニに行きたいのですが、どうやって行ったらいいかな」

「コンビニですと、館内にも2階にお土産や軽食を置いている売店がございますが」

「そうなんですね、ただ、少し新宿の町の空気も吸いたいというか、気分転換に外に出たいんです」

「それは結構でございます。あちらの正面玄関の脇を左に伸びる道をお進みください」

「ありがとう」と言って正面原価を出る。

 なるほど、正面玄関を出ると広々とした車寄せがあって、その前はいかにも新宿の町に開けていそうに見えて、その実車寄せにやってくる高級車たちは玄関の右側面の道を通ってやって来ていて、正面玄関の真正面は柵で町と隔てられていた。ふうんと思って新八が左を見ると、やはりホテルの側面に小路があり、こちらは歩行者用のものであるようだった。

 その小路を言われた通りにホテルの壁伝いに歩いていくと、途中で左に折れてさらに進むと、ホテルの棟と棟の間の通路の様な所に出て、そこを登り、途中分かれ道があって右側の棟への連絡通路と、新八の宿泊している棟の裏手に伸びる通路があり、新八はその後者を選んでさらに進むと、エスカレータがあり、それは長く地階まで伸びているようで、なるほど、来館時は駅の地下道から直結だったような気がするので、結局そこに戻されるのかと考えながら、エスカレータに乗っていると、古いアーケードゲームが数台、誰もいないのも関わらず賑やかな音を立てている部屋の前に出てしまい、新八はなんだか疲れてしまって、ホテルの2階にあるという売店に行き、おにぎりとカップ麺を買って39階の自室に戻った。そしてどこかで道を間違えてしまったのだろうと思いながら缶詰とともに軽い昼食を済ませて、執筆に戻った。

 何時間も集中して書いていた。依然として、物語は終わりが見えない。新八は文章にひと段落をつけてノートパソコンから目を離した。こんなことをしていていいのか、そういう焦りと自身に対する落胆、新八の心はホテルの自室という閉鎖された環境にいる故に余計に、かき乱されていた。

 少し伸びて目にかかるようになった黒髪をかき上げて、デスクを離れる。水差しからグラスに水を注いで飲み、レースのカーテンを開けて、眼下に夜の新宿を臨む。ピカピカに磨き上げられた窓ガラスには白いワイシャツ、黒いスラックスをラフに着こなした、細身の男、宗像新八と呼ばれている男が映っている。こんな時間か、外がここまで暗くなっているとは思わなかった。そう思いながら、新八はホテルの食事会場へ向かう。

 食事会場は比較的静かであった。今日は執筆に熱中しすぎたあまり、食事時間終了間近になってしまったせいであろう。意図的に混雑を避けたと思しき老夫婦が、目も合わせずに甘鯛のポアレを食べているのを眺めながら、新八はうな重を食べていた。重箱の蓋を取ると、たれのあまじょっぱい匂いが鼻を突き、新八はそれにかぶりつく。鰻など久しぶりだ。まあ、明日も大して執筆は進まずに、チェックアウトの時間が来て、調布の自宅へ帰るのであろう。

 しかし、良いきっかけにはなった。これだけして書けない、いや書けるには書けるのだが物語を終わらせることができないというのは、自分が小説を書くことに向いていないということだ。あきらめてここを出たら、真っ当な大学生活を送ろう。吉田に相談して、公務員になれるように教えてもらうのも良い。そう思いながら新八は39階の自室に戻った。

 

 コンコン、と部屋の扉を叩く音がする。どうぞ、と声をかけると、客室係が入ってくる。

「宗像様、おはようございます。ホテルで缶詰シングルプランの特典の、朝の缶詰ルームサービスでございます」

「ああ、ありがとう」そういって新八はさんまの蒲焼きの缶詰を受け取る。そして、ちょっと缶切りを貸してくれないか? と声をかける。

「はい、こちら缶切りでございます」そう言って客室係が差し出した缶切りを、新八は優雅に受け取ると、素早く客室係に身体を寄せ、その喉元に缶切りの刃を突き立てた。

「宗像様、何を……」

「答えてもらおうか、このホテルは何かね。いや、何が起こっているのか、私にもはっきりとはわからない。しかし私はさんまの蒲焼きを持ってくる君しかり、甘鯛のポアレを食べる老夫婦しかり、全てがデジャヴュのようなんだ。何か仕掛けがあるんだろう、さもないと君の喉をこの缶切りが切り裂くだろう」

「宗像様はご自分がどなたかわかっておいでですか」

「もちろんだ、私はある洋食店でシェフをしている、宗像新八という。護国寺にある出版社からの依頼で、レシピ本を上梓することになり、店のホール担当の吉田君に相談し、三日間だけ店を休みにして落ち着いて執筆に専念できるこのホテルを紹介された」

「宗像さん、それは違いますよ……」

「き、君は? 客室係じゃない……、吉田君ではないか」

「宗像さん、あなたは確かに飲食店で働いているが、シェフなどと言う名前のつく仕事はしていない、毎日毎日、パフェに入れるフルーツの缶詰を開ける缶切り係だ。さあ、私の喉笛の缶切りを下ろして、おとなしく缶詰を開けるんだ」

「冗談をぬかすな、私はカリスマシェフだ」

「缶詰を開け続けておかしくなっているのですね、宗像さん。落ち着いてください」

「吉田君……、いや、そうか、そうなのか……、私はどのくらいここにいたんだ」

「ここって、宗像さんのお宅のことですか。宗像さんが調布の高谷医院の診断書を持ってきて、しばらくは缶切りを控えるようにとういう内容に従って、店を休み始めてから1か月くらいですよ」

「1か月、私はいったい……、吉田君、吉田君!?」

 宗像新八は自分の寝言、叫び声で目を覚ました。全身が、白い掛布団も、シーツも、もちろん身にまとったピンク色の部屋着も、ぐっしょりと汗で濡れていた。ベッドから起きだして、鏡を見る。新八が宗像新八であると思っているところの人が、疲れた顔で立っている。記憶よりも黒い髪が伸びて目にかかるくらいになっているし、無精ひげが目立つが、宗像新八であると思った……、多分。

 本当にそうだろうか、私の名前は宗像新八、西東京を中心に店舗展開をするファミリーレストラン経理担当だ。ここは私の自宅、隣の部屋では妻が、2階の部屋では子供たちが眠っているはずだ。本当に? 毎日通っていたはずの経理課の事務所のことを思い浮かべる。パソコンに打ち込まれた数字の羅列、その記憶は確かに新八が経理担当者であったことを勇気づけるようで、反面、遠い昔の、前世の記憶のようであった。経理課長の吉田のことを思い浮かべる、いつも怒鳴っている。そんな記憶しかない吉田の下で自分が上手く働いていたイメージがまるで湧かない。

 そうか、1か月の自宅待機期間が終わったから、明日から私はまた経理課に出勤できるんだ、ふいにそう思った。何故かはわからないがそうであると、なんのための自宅待機であったのかも思い出せないまま、新八はそう思った。そしてこうも思った、ああこれは夢だな、と。私は宗像新八である。しかし本当は、あるファミリーレストランでアルバイトをしながら、文筆家を夢見るフリーターである。今は奮発して、西新宿にあるホテルに宿をとり、缶詰になって締切が近い文学賞に向けて追い込みをしている。さあ、起きないとと、新八は思った。起きて文章を書かないといけない。そう思いながらベッドの上に倒れこむ新八であった。

 【後】

 まあだだよ。