哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

映画等のこと①「聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅 」

■国際ヨーガの日のこと

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 本日、6月21日は 国際ヨーガの日 だそうである。第18代インド首相ナレンドラ・モディ氏により提案され、2014年12月11日の国際連合総会において全会一致で宣言されたそうで、2015年6月21日が第1回目の国際ヨーガの日(国際ヨガデー)だそうである。しかも今年は夏至、と思ったら、「インドの首相ナレンドラ・モディは、国連総会において6月21日と定める理由について、これが北半球において最も日が長くなる夏至に(ほぼ)相当し、世界各地にこの日を特別な日とする考えが共有されているからだと述べた。(Wikipedia)」そうである。なーんだ。

■聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅のこと

 

 

 Amazon Prime Videoにて、「聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅」を拝見した。

 近代ヨガの父と呼ばれるクリスチュナマチャリア(1888-1989)の足跡を追う作品で、師の弟子であるパタビジョイス(1915-2009)やアイアンガー(1918-2014)、師の子どもたちが出演のドキュメンタリー、と聞くときっとヨガ界ではすごいことなんだろうな、と思う。初代林家三平のドキュメンタリーに、子息の9代目正蔵や2代目三平、孫のたま平、弟子のこん平、ペーらが総出演したら、それはすごい(多分……)。

 私にとっては今から100年くらい前、インドでさえもヨガをする人が少なかった、思想・学問として研究する人はいても、アーサナ等を実践する人はほとんどいなかった、というのは意外であった。そのような状況から、クリスチュナマチャリアは学者でもあり、古い文献を紐解きながら、ヨガの実践を再構築していったらしい。師の娘の証言だが、学生時代に自分の父がクリスチュナマチャリアであるとは友達に言えなかった、ヨガは当時は誇れる仕事ではなかった、と言っていた。今やセレブが嗜むもの、お洒落であり、神聖なイメージがあるのと対照的で、やはり意外なことである。

 

 この作品を見ていくと、クリスチュナマチャリアの悪い面も描かれている。師の義弟(師の妻の弟)であるアイアンガーは自分は身内故に差別されていた、無理なポーズ(アーサナ)を要求されて、肉離れをして2年かかって治療した、と話しているし、師の感情の起伏の激しさを複数人が証言している。

 関係者たちを調べていくと、パタビジョイスのセクハラが死後に告発されたりと、前述のクリスチュナマチャリアの気性もあり、闇を感じる業界ではある。なんとなく日本の伝統芸能界とも似たような印象を受けた。

 日本の歌舞伎や能楽、舞踊等の芸能や茶道や華道などの芸事において、家元となる集団の中心がいて、その家元は主に血縁(実子ないし養子が次の家元になる)によって代を重ねており、その芸の全てに対して優劣の判断であったり免状の発行の権限を持つ。そしてその家元本家からの分家や有力な弟子がその周辺におり、さらに彼らに認められることでプロとしての活動や他人へ教えることが許される等、要はそのジャンルにおける権威がある人に集まってしまう制度や慣習が存在する。

 クリスチュナマチャリアが再興し、パタビジョイスらに受け継がれ、その優劣が多分に彼ら先生の判断に委ねられる、つまり言葉や数字で具体の習熟度が見える化されておらず、師匠から認められることでしかその習熟度が評価できない、というこの映画を通して受けたヨガの一側面のイメージは、上記の日本の伝統芸能と共通しないだろうか。

 そしてこうした環境の中では、師が傲慢になってしまうことはしばしば起こりうるだろう。いかに技量に優れた弟子であっても、師匠が認めなければ評価されないのであれば、師匠は気にくわない弟子には、芸と関係があろうがなかろうが無理な注文をするであろう。

 ヨガも日本の伝統芸能も、その技量だけでなく、ある種の神聖さ・清廉さが求められている。その芸を極めた人は徳が高い、知的にも優れており、己を律することができる等のイメージのある中で、その期待が裏切られることがあるのは、嘆かわしいことである。

 

 本作ではドイツ人監督のヤン・シュミット=ガレがパタビジョイスやアイアンガー、クリスチュナマチャリアの子どもにアーサナ(ポーズ)やプラーナ(呼吸)を習う。タイトルにある呼吸だけでなく、ポーズについてもたくさんの話が出てくる。ただし呼吸を伴わない、形だけのポーズだけでは、ただの身体運動であるため、ヨガではないのだという。

 倒立やブリッジの様な難しそうなアーサナを練習する人に対して、力は抜いて、ただ正しい位置に身体があるようにすれば良い、といった指導をするシーンもあり、なるほどと感じ入ることが多かった。ヨガの中にいくつかのアーサナを連続して、吸う・吐くの呼吸のガイドとともに行う太陽礼拝という一連の動きがあり、基本としてヨガの本や教室での指導でも頻繁に出てくるものかと思うが、この映画でもよく太陽礼拝やそれに類似したアーサナが出てくる。きっとヨガのことを何も知らない人でも楽しめる作品だが、ちょっとでもヨガを習ったり調べてみたりした人は、なお楽しめる作品と感じた。

 私自身はずっとヨガに関心を持っていて、特に身体のコリを解消し柔軟にしたいという期待があり、昨年の秋ごろから何度か近所のヨガ教室のグループレッスンに参加した。 今はCOVID-19 の影響で、教室も閉じてしまっているが、Youtube等でアーサナを実践したり、書籍を読んで勉強している。

 作中、ヨガスタジオというのだろうか、先生がいて生徒たちが思い思いのアーサナを練習する空間がいくつか映像に出てくる。思った以上に密であり、そして雑然としている。生徒同士の隙間がほとんどない中で、難しそうな姿勢を練習していて、なおかつ先生も自分でアーサナをとりながら、瞑想をしている。きっとクリスチュナマチャリアの時代にマイナーな存在であったヨガも、今はメジャーなものとして、インドの人々が気軽に集まって練習しているのだろうと思うが、この世界的にCOVID-19 が蔓延するご時世、今はどうなっているのだろう、と思う。クリスチュナマチャリアが活躍したマイソールを始めとするインドの人々が、密になりながら普通にヨガに取り組める環境は、守られているのだろうか、そんなことがふと、頭の片隅をヨガった、もとい、よぎった。 

■参考

www.amazon.co.jp

www.uplink.co.jp

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