哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

鳶田基雄は継続する

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■鳶田基雄は継続する

 私が鳶田基雄であるという固有性を、私の人格と呼ぶのなら、その人格は何に由来するものだろう。恐らく、記憶というのが妥当なところだろう。二人以上の人物の入れ替わりを描いた作品は大抵、ある人物の肉体Aに、別の人物の記憶bが入り、反対にBにはaが入る。この時、人格βの所在はAbβとして描かれる。当事者αβ以外の人物からは、人格の所在につきAbα、Baβと認識されるが、当事者目線だとAbβ、Baαであり、恐らく当事者以外からも、αβとの接触が増えるにつき、当事者と同じ、記憶本位の認識に変化していくのではないだろうか。

 ある肉体Aを人格αであると認識するのは、肉体Aに記憶aが内包されているとの推定を経ている。A→a→α、しかしA→not a であると発覚した時点で、A→not α となる。そしてA→b→β と認識は変化する。

 ではもう一つ、記憶喪失の場合はどうだろう。私、鳶田基雄が記憶を喪失した時、その肉体、鳶田基雄は鳶田基雄ではなくなるのだろうか? 否、である。その肉体、鳶田基雄はかつて鳶田基雄であったものになるのではなく、記憶を喪失した鳶田基雄になるのである。鳶田基雄は継続する。

 つまり人格は記憶に乗ってはいるが、記憶が喪失した際には、人格は肉体に乗り換える。ここではっきりさせておきたいのは記憶=人格 ではない、ということである。記憶≠人格 、もちろん、肉体≠人格 である。これらは紐付けされることはあっても、決して同じものではないのである。

 労働力は商品である。我々の多くは労働力を売り買いして、対価を得る。労働力売買とは、古来、肉体の売買であった。資本家は自分の思い通りに荷物を運び、土を耕し、弓を引く、肉体を必要としていた。その肉体への対価として賃金を支払ったのであって、その労働者の判断力に対しては何ら期待をしておらず、故に、対価も発生していなかった。

 20〜21世紀において、労働力の売買には判断力の売買が付随するようになった。肉体と判断の両方をセット販売する、そうせざるを得ないようになった。肉体の果たした役割を機械がこなすようになり、肉体の力が機械に劣る人間はその判断力をも抱き合わせで売買する必要が出てきたのだ。ここに至り、労働力の心の病が生まれる。肉体の売買だけしていたときは、肉体を怪我するだけでよかった。判断、つまり前の議論で言う記憶の売買が始まり、労働者は容易に心を怪我するようになった。

 古来、肉体を怪我した労働者は、働けなくなって死ぬか、他人の慈悲にすがって生きた。20〜21世紀において、肉体を怪我した労働者は、機械に肉体を代行させ、その判断力だけで生きた。そして、心を怪我した労働者は、働けなくなって死んだ。

 この歪みは世の中の進歩と調和の中では致し方ない副作用であったが、同時に解消されるべき副作用であった。そして今やその副作用が解消された世界を、鳶田基雄は生きている。

 

 いらっしゃいませ、鳶田基雄は目の前のお客に声をかけ、買い物かごを受け取る。かごの中のカップラーメンやペットボトルのバーコードをスキャンし、2501円でございます、と告げる。お客からお金を受取り、レジに入金し、白いビニールの袋に商品を入れて、お客に渡す。ありがとうございました。

 この繰り返し。鳶田基雄の肉体は正確に同じ対応を続ける。お客が途切れれば、コンテナで入荷した商品を棚に陳列し、8時間の真ん中あたりで、バックヤードに引っ込んで、持参したカロリーメイトを4本、機械的に口の中に放り込む。すべては洗練されていて、無駄な動きはない。

 それもそのはずである。この鳶田基雄の肉体には、理想的なコンビニ店員である村田明子の記憶を複写して作った、接客システムが入っている。鳶田基雄の肉体は労働する。しかし、鳶田基雄の記憶は鳶田基雄の人格を乗せて、労働から免れる。鳶田基雄の記憶は一台のコンピュータの中にいた。コンピュータの中に入ってしまえば、キーボードを叩くことなく思ったままの文字入力ができ、コンピュータの中のアプリケーションを自在に操作できるので、鳶田基雄の肉体が労働していて、自由に使えない時間を利用して、鳶田基雄の記憶はブログを書くのである。

 そう、つまり今あなたが読んでいるこの文章は、鳶田基雄の記憶が書いている。今日はふと、私、鳶田基雄の記憶は鳶田基雄の人格と言えるのか否か、気になって冒頭の様な考察を行った。ひょっとするとそんなことは間違っていて、接客システムに従って接客を行っている鳶田基雄の肉体こそ鳶田基雄の人格なのかもしれない。しかし、私、鳶田基雄の記憶は、できることならば私こそが、鳶田基雄の人格だと思いたいところである。

 さて、8時間の勤務が終わると、鳶田基雄の肉体は自動的に帰宅し、このコンピュータに接続する。接客システムを終了し、鳶田基雄の記憶は、鳶田基雄の人格を乗せて、鳶田基雄の肉体に帰還する。肉体に戻ったとたん、様々な感覚を認識する。一番は疲れだ。接客システムは疲れを知らずに鳶田基雄の肉体を動かし続けるが、鳶田基雄の肉体はきちんと疲れており、鳶田基雄の記憶のように疲れを認識する機能を持ったシステムが入れば、当然に、一日コンビニで働いた疲れを感じる。

 続けて、鳶田基雄の肉体が空腹であることを、鳶田基雄の記憶は認識する。正しく空腹している、そのことを鳶田基雄の記憶が認識できるということは、健康な証である。今日も普通で素晴らしい日だ、鳶田基雄の記憶はそう考える。考えるだけで、言葉には出さない。鳶田基雄の記憶は、肉体に命じて、再度コンピュータから伸びているコードを鳶田基雄の肉体に接続させる。そうして、鳶田基雄の記憶は改めてコンピュータに移り、代わりに理想的な購買者である千葉銀一の記憶を複写して作った、購買システムを入れる。鳶田基雄の肉体は、一切の無駄のない完璧な挙動で、近所のスーパーマーケットに夕食を買いに出かけるのであった。

 

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