哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2020年8月の読書のこと「機巧のイヴ」

■機巧のイヴ(乾緑郎/新潮社)のこと

 「乾緑郎の改変歴史時代SF《機巧のイヴ》三部作完結! - 新刊めったくたガイド|WEB本の雑誌」を読んで、この作品に興味を持った。読んでみて、大正解。少し前に今年はあまり面白い本に出会っていないと記したが、先日発売した『ビブリア古書堂の事件手帖II 〜扉子と空白の時〜(三上延/KADOKAWA)』と本書の二冊で十分、一夏で今年の読書事情が充実した。 

機巧のイヴ(新潮文庫)

機巧のイヴ(新潮文庫)

  • 作者:乾緑郎
  • 発売日: 2018/02/16
  • メディア: Kindle
  • 天府城に拠り国を支配する強大な幕府、女人にだけ帝位継承が許された天帝家。二つの巨大な勢力の狭間で揺れる都市・天府の片隅には人知を超えた技術の結晶、美しき女の姿をした<伊武>が存在していた!
●機巧のイヴのこと

 本書は江戸のようで江戸ではない、天府という都市を舞台に繰り広げられるSF伝奇小説であり、5つの短編「機巧のイヴ」「箱の中のヘラクレス」「神代のテセウス」「制外のジェペット」「終天のプシュケー」を収録している。各短編の主人公はバラバラである(後半3作は田坂甚内という公儀隠密が中心人物となる)が、共通して本書のタイトルにあるイヴ(伊武。1886年に発表されたフランスの作家ヴィリエ・ド・リラダンによるSF小説未来のイヴ』が由来であろう)と呼ばれる、アンドロイド(機巧人形)が登場する。
 江戸に天皇家と幕府があったように、本書の世界にも実力を持っている幕府に対して、象徴としての権力である天帝家が存在し、代々女系が継いでいる。そしてこの両勢力の争いや、天帝家に伝わるという神代の神器のこと等が、次第に明らかになってくる。

 皆さんは「攻殻機動隊」をご存じだろうか? 原作マンガに、アニメシリーズやアニメ映画、ハリウッドでの実写映画等、様々な媒体で作品があるが、私は押井守さんが監督を務めた同作のアニメ映画(「攻殻機動隊」と続編の「イノセンス」)が好きである。
 同作と扱っているテーマは近い。フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(映画「ブレードランナー」)とも似ている。アンドロイドに人間の心は宿るのか、人間とアンドロイドの違いは、といった話題が出てくる。本書が新しい点は、それを江戸っぽい世界のからくり人形として描いた点。そして私が気に入った点は、物語の結末が明るく綺麗である点である。

――「人と人との間でも、相手が何を思っているかは、本当はわからないでしょう?」確かにその通りだ。その点では人も機巧も同じだ。

 本書でイヴと同居している、幕府精煉方手伝の釘宮久蔵は、凄腕の機巧師であり、生き物そっくりの機巧人形を作ることができるだけでなく、腕を切り落とされた人間に機巧の腕を作る等、身体の欠損を補うことができる。「攻殻機動隊」では、義体と呼ばれる技術である。この腕は理性を無視して、感情のままに暴走することがある。実際そうなってしまった人の失敗が、本書で描かれている。

――魂のない機巧を、心のままに動かせるようなら、心が乱れれば動きもおのずと乱れるかもしれぬ。どうなるかはわからないぞ。

 このとき、私はどこまで私なのだろうな、と思う。例えば私は、目が悪いので眼鏡ないしコンタクトレンズがないと、満足に生活できないのだけれど、もはや彼らを私の身体の一部のように感じることがある。道具、例えば箸やペンを持つとき、彼らは私達の身体の一部であるかのように、意のままに動く。自転車に乗るとき、私の身体感覚は自転車のタイヤの先まで、延長する。義足の人にとって、義足は足と同じであろうと思う。人工心臓を使う人は、それを自分の心臓だと見なすだろう。対して、私達は切り取られた自分の髪や爪を、もはや自分の身体の一部だとは思わない。汗や排泄物など、以ての外である。私はどこまで私なのだろうか。
 本書では義手のようにつけられた機巧は、本物以上と表現されるほど、自身の腕と変わらなく動いたようである。もはやそれは、自分の腕である。しかし前述の通り、その腕が暴走した描写もある。自分の身体の一部でありながら、自分のコントロールを外れてしまう存在。しかし、それはさほど珍しいことではない。そもそも心臓のように、我々の理性でコントロールできない機能により、我々は生かされている。手足のように、普段はきちんとコントロールできていても、病気や心的な要因で痙攣してコントロールを失うこともある。そう考えると、神経の損傷で身体の一部が麻痺することもあるわけで、そのとき、例えば麻痺した脚は、確かに自分の脚でありながら、自分の理性で動かすことのできない、私であって私でない存在となる。

――だが、それが何だというのだ。この女の目から涙を溢れさせているのは、機巧ではない。悲しみがそうさせているのだ。

 テセウスの船という例え話がある。テセウスの船の部品を修繕で取り替えていって、ついにすべての部品を取り替えたとき、それは元々のテセウスの船と言えるのか。あるいは修繕のために外された部品たちを元の通りに組み上げたとき、どちらが本物のテセウスの船なのだろうか。この論理は本書でも登場する。あるアンドロイドを修繕と称して、部品を取り替えていったときのことが、想定される。
 そしてそれは、人間にも言える。欠損をどんどん機巧にしていったとき、人間はいつまでその人なのだろうか。私を構成する肉体全てを、機巧に置き換えるに能うとして、私はそうなっても、依然として私なのだろうか。人間はいつまでも人間なのだろうか。私はどこまで私なのだろう? 

●機巧のイヴ新世界覚醒篇のこと

 この記事を書いている途中で、第二作である新世界覚醒篇も読了した。
 第一作が架空の日本の江戸時代であったのに対して、第二作では、架空のアメリカでのシカゴ万国博覧会1893年コロンブスアメリカ大陸発見400周年を記念して催されたため、シカゴ・コロンブス万国博覧会とも呼ばれる)が描かれる。ゴダム万博だ。
 前作で登場した十三層と呼ばれる娼館が日下圀館(実際のシカゴ万博では、平等院鳳凰堂を模した日本館が建築されたそうだ)として、ゴダムに移築され、展示の目玉は田坂甚内の死後100年間の眠りについていた機巧人形(イヴ)。物語の主人公は私立探偵のジョー・ヒュウガ(日向丈一郎)であり、彼の過去、華丹(中国)での軍事探偵の日々や、スカール炭鉱で労働スパイをしていたこと等が徐々に明らかにされ、それらは物語に暗い影を落とす。
 現実のシカゴ万博で観覧車が作られ、電気が多用されたように、物語でも発展を続けるゴダムが描かれ、その反面の労働者の厳しい状況や、有色人種らへの差別が明らかになる。そうした人類の暗い歴史を、架空の物語として描くことで、訴えかけてくるものもあったし、暗い部分はありつつも世界が進歩している雰囲気が、楽しくもあった。作中ではコロンブスは新世界大陸発見の架空の英雄とされる。
 日向やイヴにとっては我々のこの世界こそ、架空の世界なのだろう、と思うと面白くなる。私はこの日本によく似た世界の作家が描いた小説の登場人物に過ぎないのかもしれない。

VR攻殻機動隊 @世田谷パブリックシアター のこと

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中合わせでプログラムでも謡本でもあり、洒落ている。

 関連して、三軒茶屋駅にほど近い世田谷パブリックシアターにて、「VR能 攻殻機動隊 - VR Noh 'THE GHOST IN THE SHELL'」を拝見してきたので、その感想を記す。

 なお、同劇場でもマスク着用の徹底、時差退場、一席おきの配席、入場時の手指消毒、連絡先記入、半券を来場者自身がもぎる等の、新型コロナウィルス感染症対策をなさっていた。

 

原作
郎正宗(講談社
出演
貴信 川晃平 谷健吾(観世流能楽師
大島久 (喜多流能楽師) ほか
演出
奥秀
脚本
藤咲淳
映像技術
福地健郎(明治大学教授)
VR技術
見昌彦(東京大学教授)
製作
VR隊製作委員会

 

 攻殻機動隊は前述の通りに、義体と呼ばれる技術で人間の身体の一部をアンドロイドとしたり、脳みそも電脳と呼ばれる機械として、直接コンピュータやインターネットに接続できるようになったり、といった世界の物語である。主人公の草薙素子は、全身が義体化されている。人間に固有のものとしてゴーストと呼ばれる魂があるのだそうだ。

 作中で、草薙素子人形使いと呼ばれる人物? と一体化してネットの海に旅立ってしまうが、このVR能では、仲間であるバトーの前に、そのネット(能の詞章(セリフ)では電網と表現される)の中を彷徨うように、素子や人形使いが現れて消え、舞を見せる。

 能としての技術的な巧拙はよくわからないし、物語も特筆すべきものはないのだが、そのVR技術がすごいと思った。
 舞台には能舞台の柱の様な形で、4本の黒い柱が立っていて、上手の手前の柱(能舞台でいうワキ柱)と下手の奥の柱(同シテ柱)を梁でつないであり、その梁の描く斜めのラインで線対象になるように、手前の人物が奥に鏡写しのように見えるので、どうもその辺りに仕掛けがあるようなのであるが、目の前に不意に人が現れたり消えたりする。
 人形使いと舞っていた草薙素子が不意に見えなくなり、また次のシーンでは、3人の草薙素子が舞を始める。実物だと思っていたものが消え、VRの3D 映像かと思って見ていたものが、急に実体を伴って見える。それがゴーグルやヘッドギアの様な設備無しに、肉眼で見ているだけなのに、ちゃんと奥行きのある映像として、浮かんで見えるのだ。
 攻殻機動隊光学迷彩と呼ばれる、人の姿を透明にする装備が登場するが、まさにそれと同じ技術が舞台上で実現しているのである。

 そんなわけで、これが能である、と言われると、ふーむ、という感じであるが、舞台作品・エンターテインメントとしては非常によくできていたと思う。能楽(能と狂言)は日本の芸能でありながら、神聖な儀式という側面もあるが、伝統に胡坐をかかずに、こうした舞台表現の一様式として、進化を続けていることは魅力の一つである。
 例えば、9月には国立能楽堂手話狂言が催されるが、こちらは舞台上でろうの役者が演技をしながら手話を、陰のアナウンスで狂言師が声を当て、目で見て、耳で聞いて、同じ狂言を聞こえる人も聞こえない人も、一緒に楽しむことができる、という趣向のようで、38年程前に、あの黒柳徹子さんを中心に、新しく始められた試みであるようだ。

 いずれにしても、どんどん進化を続ける能楽にさらに注目したいと思った公演であったし、また攻殻機動隊という作品についても、マンガ・アニメと、改めてチェックしたいと感じさせられた。ご機会があれば、是非ご覧いただきたい。

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