哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

映画等のこと④シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

■映画等のこと④シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

f:id:crescendo-bulk78:20210418234701p:plain
コーヒーティラミスフラペチーノと映画半券

 エヴァンゲリオンと初めて出会ったのはいつであっただろう。もちろん、その名前は知っていて、何やらへんてこな人気アニメという情報もあったのだけれど、きちんと作品を観たのは新劇場版:Qの公開頃からである。

 勤めていた小売業の会社を辞めた頃で、ちょうどQの公開を前にして、序と破がTV放映されていた。その辞めた会社で世話になった先輩の一人が、エヴァを好きと言っていたのも一つのきっかけだったと思うけれど、ともかくTVで序と破を観た。エヴァの新劇を観た人なら同意してくれると思うけれど、序と破はエンターテインメント作品として、非常に良くできている。だからいいじゃん、面白いじゃんと思って、逆上気味にQを劇場に観に行って、何がなんだかわからなすぎて絶望した。

 当時は無職で時間だけは果てしなくあったから、一度冷静になって、TVアニメ版のDVDをTSUTAYAで借りてきて、やっぱりわからなくて困惑して、旧劇場版のDVDも借りてきて、TVアニメ版やQよりはマシだけれど、やはりわからなくて、もう一度Qを劇場に観に行ってやっぱりわからなかった。けれど、わからないけれどわからないなりに、その世界が大好きだったし、考察サイトを見たり二次創作を読んだりして、結構熱中した。

 思えばそれから、約10年たったわけである。わからないまま、10年間放置されていたのは、私だけではないだろう。というか、待たされすぎてもはやエヴァが好きなのか否かよくわからなくなっていたけれど、せっかく完結編となる、シン・エヴァンゲリオン劇場版:||が公開されたのだし、観に行ってみるかぁとなって、公開から1ヶ月以上過ぎた先日、ようやく劇場に足を運んだので、感想を記す。

●シン・エヴァンゲリオン劇場版:||のこと

f:id:crescendo-bulk78:20210421002231j:plain

※以下、激しくネタバレいたします。また先日、シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を通して見た他、序・破・Qは約1年前に視聴、旧劇及びTVアニメ版に至っては10年近く視聴していない中で執筆しているため、記憶違いが多々あるかと思います。ご容赦願います。

 シン・エヴァンゲリオン劇場版:||は丁寧に、序・破・Qのダイジェストから始まる。そこで復習を終えると、真っ赤に染まったパリの街が描かれ、ユーロネルフ施設の奪還作戦が描かれる。真希波・マリ・イラストリアス伊吹マヤが活躍し、作戦は成功する。そこから一気に物語は展開していく。

 総じて、私は観て満足であった。AAAヴンダーを始めとした、宇宙戦艦の撃ち合いみたいところが多いのは、エヴァ的にいいのか、と疑問であったし、あれだけの兵器を建造するマンパワーが全く感じられない点も謎であったが、それでも面白かったし、多くの謎に答えを出してくれたのはありがたかった。

 そもそもエヴァ碇シンジが葛藤の末に、(父である碇ゲンドウLCLにすべて溶け込んだ個のない世界を目指したのと対象的に、)他人とぶつかり合ってでも、いまの生身の世界を選ぶ物語であり、それを繰り返している。その結果が、TVアニメ版のありがとうのシーンであり、旧劇場版の惣流・アスカ・ラングレーに気持ち悪いと言われるシーンなのである。今回は同じ主題をよりわかりやすく、エヴァのない我々観者にとっての現実世界(庵野秀明総監督の故郷である宇部新川駅の空撮実写が流れる)でシンジがマリと成長していく、というラストになる。

 旧劇場版の時点で、庵野はオタクたちをエヴァやアニメの世界から、現実に戻すために映画館の実写シーンをいれたりした(んだったような気がする)けれど、今回、庵野はその点も非常にわかりやすく描いてくれていたのである。エヴァの呪縛(シンジたちエヴァパイロットが、破とQの間に14年の月日が流れたにも関わらず、見かけ上、年をとっていない)とは、まさにエヴァに縛られたオタクたちを表していて、人類補完計画を止めアニメの世界から抜け出したからこそ、シンジの止まっていた時が流れ出すのである。

 今回、一番の驚きとも言えるのが、式波・アスカ・ラングレーが、綾波レイと同じく、作られた存在であったことである。シンジに対して好意を抱くように、仕組まれた存在。それは渚カヲルも同じ。カヲル=ゲンドウ=父性、レイ=ユイ=母性であるとすると、アスカは友人か、幼馴染か? こうしたエヴァの世界にハマったオタクたち、子供から抜け出せないでいるシンジを、現実世界に引っ張り出すための表象として、新劇にマリが必要であったことも納得できる。シンジが自立して一人の大人(男)となるためのトリガーであり、異性の象徴としてのマリなのだと思う。もっとも若く見えても中身は、冬月コウゾウイスカリオテのマリアと呼ばれる等、冬月の教え子の一人で、シンジの母である綾波ユイと同年代であるのだが。

 そんなオタクたちがどっぷりハマった、アニメ「エヴァンゲリオン」の作られたキャラクターにすぎないレイやアスカを棄却して、現実に目を向けさせるのが、本作である。

 本作ではさらに、過去の作品の印象的な演出が、セルフパロディのように登場する点も、にわかファンではあるが一エヴァ好き(仮称)として、楽しめるポイントであった。例えばTVアニメ版の絵コンテ風のシンジの心象世界を模した、絵コンテ風シーン。同じ主題を表現を変えながら繰り返しているなかで、でもちょっと同じ表現が出てきて、それらはすべて並列しているような。

 そしてその主題を明確化するために、鈴原トウジエヴァに乗ってはいけなかったのだ。もちろん、Q・シンでのアスカの怒りを描き、シンジの成長を促すために、エヴァンゲリオン参号機にアスカを乗せることにしたのかもしれない。だけれど同時にトウジが乗らなかったこと、トウジをエヴァと関係ない生活者として存在させたことによって、トウジや相田ケンスケ、委員長たちの第3村が生活(現実世界)の象徴として、より輝き、シンジやアヤナミレイに影響を与えるのである。

 そういえば、ケンスケが非常に理解のある大人として、本作ではすでに亡くなっている加持リョウジの代わりのような、イケメンぶりでシンジを支える。思えばTVアニメ版でも、中学生時代のケンスケが野営をしているところへ、家出したシンジがさまよって来て、救われるシーンがあった(気がする)が、そのあたりも、世界線が変わっても、何年たっても、相変わらずだなぁと、楽しめる要素の一つである。

 エヴァンゲリオンとは最終的には、初号機=ユイ=母親と、13号機=カヲル=ゲンドウ=父親がともに、子供であるシンジの世界を開く物語であった。本作では、シンジと同じ悩みを抱え、S-DATを耳に、知識とピアノに慰められていたゲンドウの告白がある。彼はシンジの中にいるユイ=失った妻に気づいて、不格好に自身の葛藤を乗り越えていく。そんな葛藤に向きあう親子の物語がエヴァンゲリオンであった。

 我々はみな、祖先たちの思い出、あるいは面影を引き継ぎながら、祝福されて、この世界に出現した。その世界には悩みや苦痛もあるので、どこかに逃げ込むのは構わないけれど、そんなことよりも世界に出ていくほうが、よほど良い。そう思わせてくれる、良い終わり方でした。

■ちょっと関連