哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2021年6月の徒然なること

■2021年6月の徒然なること

 眠り過ぎて(昼寝)、自己嫌悪になりながらこれを書いている。「心が眠りたがっているんだ」というタイトルが思い浮かぶが、その話は今はおいて、一心不乱に徒然する。

●2021年6月金春円満井会定例能(2020年6月延期分)第1部「加茂」 @矢来能楽堂 のこと

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矢来能楽堂(東京都新宿区)にて

 先日報告した通り、能「加茂」のシテ(主演)を勤める柏崎真由子主催による、同曲の謡本の読書会「能の物語りを読んでみよう!-加茂-」に参加した上で、本番の舞台を拝見してきたので、感想を記す。

 公演は2021年6月26日(土)、金春円満井会定例能、東京・神楽坂の矢来能楽堂で催された。新型コロナウイルス感染症が蔓延する以前の一年半くらい前まで、同公演は全三部、入替なし、自由席で5,000円であった。今回は入替制、指定席で、各部3,000円。リーズナブルな金額で自分の好きな演目・出演者を選べるし、席が確保されているため、開演直前に到着すれば良く、あながち悪いことばかりではないが、いずれにせよ、公演主催者は工夫と苦労の上の開催であろう。

 拝見した第一部では仕舞「経政」キリ(中野由佳子)が上演され、次いで能「賀茂」(柏崎真由子)が始まる。事前の学習の通り、物語は室明神の神職が京都の賀茂神社を訪ねるところから始まる。能の前半ではシテ柏崎、ツレ村岡聖美は土地の女性の姿で登場し、舞台の前方真ん中に置かれた、祀られた矢についての謂れを語る。そして後半、村岡は御祖の神(下鴨神社の祭神)として、天女の姿で美しくあでやかな舞を見せ、ラストは柏崎が別雷の神(上賀茂神社の祭神)として、勇壮な舞を披露する。ほーろーほーろー、とーどろとどろと、舞台を踏みしめながら、雷を呼ぶ姿は勇ましく、そして同時に明るく楽しくも思われる。

 私は矢来能楽堂の座敷席(正面席後方の仕切られた席)に入るのは初めてであったが、こじんまりとした矢来の見所(けんしょ・観客席)であるため、座敷席(き-4)は正面席の最前列から七列目にあたり、舞台が非常に間近に感じられ、大迫力の別雷であった。とにかく後シテがかっこいい、物語を知らずとも感覚的に楽しめるのでは、と思える内容であった。

●舞台「夜は短し歩けよ乙女」東京公演 @新国立劇場 のこと

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新国立劇場(東京都渋谷区)にて

 2021年6月13日(日)、新国立劇場中劇場にて上田誠(ヨーロッパ企画)プロデュースによる舞台「夜は短し歩けよ乙女」を拝見した。同作品は2006年に角川書店より刊行された長編小説。2009年のアトリエ・ダンカンによる舞台化以来、二度目の舞台版。また原作者森見登美彦ヨーロッパ企画のタッグとしては、『四畳半神話大系』のテレビアニメ化、本作および『ペンギン・ハイウェイ』のアニメ映画化、ヨーロッパ企画による舞台「サマータイムマシンブルース」を森見が翻案した『四畳半サマータイムマシンブルース』の発表に次ぐ例。
 そもそも原作からして、森見の言葉遊びが連発していて、そうした冗長さを除いていくとまるで魅力が伝わらない作品だけに、原作の名言たちが随所に散りばめられ、たくさん笑えたことが素晴らしい点。原作を読んだのは随分前なので自信がないが、詭弁論部の高坂を登場させる機会を(多分)増やして挙げ句にテレビインタビューを受けさせてみたり、後半に乙女のお姉ちゃんによる押しを追加してみたりと、原作を活かしつつ、“くすぐり”を増やしており、とても良い仕上がりであった。
 また背景のスクリーンにセリフ(の一部)や、乙女が秋〜冬のタイミングで、先輩のことを考えて“ぼ〜っ”とする擬音も映し出すことで、それらの言葉を際立たせていて、巧みであった。それ以外にもスクリーンや舞台セットの転換など、舞台ならではの(小説ではできない)工夫が練られていて、見事だと思った。
 主演の中村壱太郎は歌舞伎の女方というバックグラウンドを活かして、パンツ総番長と意中の人の出会いのシーンを(先輩として)再現してみせたり、女方っぽい動きが取り入れられていたりと、役者の得意分野を活かしている。冒頭のモノローグ、早口言葉のような長台詞も流石である。

 一方の乙女、久保史緒里も、流石のアイドル(乃木坂46の方だそう……)、歌って踊らせたら輝いている。ミュージカル風なシーン等で力を発揮していた。また竹中直人は存在感がある。李白さんはちょっとのだめのシュトレーゼマンのような雰囲気で個性的だし、”木屋町の長渕”というキャラクターにも扮して観客を笑わせる。春〜夏の間にスタッフロールが流れてしまうシーン等々、幕間の、先輩・文化祭実行委員長・パンツ総番長らの掛け合いも楽しい。とにかく明るく笑って楽しい舞台であった。

 中村壱太郎×久保史緒里(乃木坂46) 舞台『夜は短し歩けよ乙女』大阪公演の千穐楽、6月27日(日)17:00 ライブ配信決定(ぴあ)だそうなので、よろしければご覧ください。

不安のこと①

 5月の徒然なることで記した通り、私の6月は悲しみの洪水とともに始まり、常に不安と心配を抱えながらの、一ヶ月であった。私の場合、主にその不安と心配は、自分の力の及ばないところで巻き起こる何か、について抱くようである(多分、割と誰でもそうだ)。

 つまりある人物の決定や言動が自分に不利益をもたらし、同時に私が許容できる不利益のキャパシティがある程度固定されている時、そのキャパシティを越えるのではないか、ということが不安をもたらす。私は一般に、ある人物の決定に影響を与えることはできるけれど、決定を確実に左右することはできないので、常にある人物の決定が私に不利益をもたらす可能性はつきまとう。それ故、キャパシティの上限を変えていくことが不安に付き纏われないためには肝要となる。

 とはいえ、このキャパシティは完全に固定はされておらず変動可能なものであるが……、(ここで一週間程度、筆を止めていたため、何を書くか忘れました……)自由自在とは言い難い。そもそもこれが自由自在であれば不安等起きないのであるから。

 このキャパシティとは、この程度の不利益なら受け入れられる、ということである。ところで、ニーチェは自らの哲学において生み出した概念「超人」について、これが人生かならばもう一度と、永劫回帰を受け入れる人物だと、特徴づけているそうである。確かそんなことを高校の倫理の先生が言っていて、彼は禿頭に真っ白い口ひげを蓄えた、平日のサンタクロースのような出立ちで、数息観という呼吸法を教えてくれ、その倫理の授業は毎回呼吸法の練習から始まる故、新興宗教の集会のような雰囲気であったという。なんにせよ、不利益を受け入れるにあたって、深呼吸でも何でもして、とりあえず気持ちを落ち着けることは必要である。焦りは不利益を、必要以上に大きく見せる。

 また、その不利益の大きさを見積もるにあたって、過去の経験と照らし合わせることは大切である。それと同時に、過去の悪い記憶を拡大視しないことも。それゆえ、しばしば自己啓発本で成功体験を云々が論じられるのは、的を射た意見である、と言える。いずれにしても、まずは過去の自分に相談して、以前に似たような困りごとを解決した経験がないか、聞いてみるのである。見つかればしめたものだ。それは過去の自分がとても苦労して解決した、もう二度とやりたくない、と思うようなものかもしれないが、解決できたのだ。苦労しても解決できるのだと希望を持てれば、案外、前回より簡単に解決できてしまうかもしれない。あるいは、似たような課題に十回中九回成功している場合。一回には目を瞑ろう。その一回の失敗を拡大視すると心配になるが、できたことに目を向けることこそ肝要だ。

 さて、そうした過去の自分が全く役に立たなかった時、次に相談するのは、自分以外の誰かだ。誰でもいい、家族でも友人でも、カフェの主人でも区役所でも、先生でも同僚でも、SNSでも。使えるものは何でも使えばいい……。やっぱり、何を書くつもりだったのか思い出せないので、この話、思い出したら続けます……。

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