哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

冬支度

■仇櫻堂創業一周年記念創作まつりのこと

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 いつも当ブログ「哲学講義 仇櫻堂日乗」の活動にご理解をいただき、厚く御礼を申し上げます。2021年9月、当ブログは開設3年半を迎えます。私がもう一つ「仇櫻堂」という場を作ったのは一年前、2020年9月16日でした。「人と本にまつわる何かを」目指す仇櫻堂は、この度、創業一周年を迎えます。つきましては仇櫻堂創業一周年を記念し、当ブログではこの2021年9月を文芸創作月間と位置づけ、「創作まつり」を行っていきます。どうぞよろしくお願いいたします。

●冬支度

 彼は論理的に、至極論理的に私に対して要望を訴えてきた、つもりのようであった。少なくとも彼の頭の中では、その論理は自明の理で、えぃいこぉるびぃ、びぃいこぉるしぃ、ゆえに、えぃいこぉるしぃ、のように単純明快な議論のようであったが、私には彼の論理展開が理解できなかった。いや、理解できないというのは、正しい表現ではない、つまり彼がいかにしてそうした誤った推論をするに至ったかは、その背景にある感情についてまで、明白に察することができたが、いずれにせよその議論は私には受け入れがたいものであった。そもそも我々は、正しく論理的な推論をできているという、つまりそれは彼や私やあなたがという個人的なものではなく人類という種の可能性として、正しき前提に基づけば正しき結論に至ることができるという、信頼を寄せていて、彼や私やあなたはその論理の使い方を時に誤るとしても、極めて正確にそれを活用しさえすれば真実に辿りつける、そうした能力を有しているといると考えている。しかしそれは誤解である。論理とは人類という種により、同胞たちがあたかも論理の力で世界の全てを判別しうるという誤解を抱くよう、そしてその誤解ゆえに論理の素晴らしさをより一層高め続けるように、無意識に構築された一つの世界観である……。

 彼女の話は私にはピンとこなかった。恐らくこの思想的前提が、首長候補である彼女の政策にいかに反映されているのかは、これから述べられていくのであろうが、私は傘を閉じて、折よくやってきた路線バスに乗車し、街頭で叫ぶ彼女の話をシャットダウンした。秋の長雨が続く肌寒い季節、街路の木々は葉を黄色く染め始めている。これから本格的な冬が来る。私にとってもっとも重要なのは、病院に行って薬を貰い、淡々と冬支度を始めることであった。

 病院の医師は初老の男性と相場が決まっていた。もっとも初老という言葉は老人の域に入りかけた頃を指すが、これがかつては四十歳のことを意味した。そうなると私も初老の男性を気取ることができてしまう。そのためこの言葉の意味はきちんと定義され直さなければならない、気になってデータベースを当たると、首長候補〇〇〇七ニ、一一四九七、八六五六五、の三名はこのことに関心を寄せており、特に一一四九七は初老という言葉の定義の不明確さからその使用禁止を訴えていた。

 調子はどうかね? 初老の医師は私にそう尋ねた。医師の背後の窓からはオレンジ色の日が射し込み、部屋の中を薄暗く照らしていた。進化しすぎた情報産業は人類の体内にある遺伝子情報を植え付けることで、人類を生身のままで、前世代が妄想したくだらない電脳化や義体化を経ずとも、情報の網に接続することができるよう、改造する術を得た。あらゆる情報にアクセスできるということは、あらゆる情報にアクセスされうるということであった。気になる異性をしげしげと見続ける人は、ふと、自分もまた相手から訝しげな眼差しで見られ続けていることを知った。誰もが地球の裏側の人々のいら立ちを感じ、隣家の人々の悲しみに心を動かされた。それを突き詰めた結果、人々は何も感じなくなった。

 共感性の欠如、と呼ばれる現象が起こりはじめたのは、高度情報化世界の実現から、八秒後のことであった。人間たちは、情報を情報として処理することにした。誰かの痛みはそれが論理的に排除されるべき痛みだと推論されれば、それを排除する施策がなされた。同胞たちの苦悩は解決可能な限りにおいて解決され、解決不可能な案件は捨て置かれた。つまり人類たちは淡々と生きていたのだ。一方で私は(私のようにその情報を情報として処理できない、見たもの聞いたことに一々反応してしまう人は、一定数いた、)薬に頼った。

 いつもの薬を処方しておくから、継続して様子を見ましょう。医師に処方された薬を受け取り、私はまた路線バスに乗って、自分の家に帰る。雨が降り続いている。この雨が二週間後、この世界を洗い流して、破壊し尽くしてしまうことを、誰もが情報として知っていた。誰もがその情報を得ており、そして、その崩壊を止める施策がないことを、誰もが極めて論理的に承知していた。私がそのことについて、少しだけ覚えた違和感は、きちんと薬の力で覆い隠された。私は来るはずのない冬の支度を始めたのである。

●あとがき

 出来栄えの良し悪しはともかく、元気なときよりも心身が弱っているときの方が、文章を書きたくなることが多いです。先日、新型コロナウイルス感染症のワクチン(ファイザー製)を接種し、副反応に苦しみ、そうかと思えば急に冷え込んだことで精神を疲弊させ、万全の? 体調で、上の作文に挑みました。繰り返しますが、出来栄えの良し悪しはともかく、です。

 いずれにしても書く楽しさは再認識しました。何も思いつかなくとも、ひとまず書き始めてみると、何かしらの言葉は出てくるものです。立ち止まって考え続けるのではなく、ひとまず動いてみることが大切だと思います。

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