哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2021年11月の徒然なること

■2021年11月の徒然なること

f:id:crescendo-bulk78:20211109190738j:plain

 徒然なるままに、その日暮らし、蜆に向かいて……。

●徒然なること

 千葉市青葉の森公園芸術文化ホールにて行われた、「青葉伝統芸能講座」に行ってきた。

 こちらは、2022年2月13日(日)に予定されている第41回青葉能(金春流による素謡「翁」 仕舞「高砂」 能「羽衣」 他の上演)に先立ち、能楽とはという初歩のお話と体験を、シテ方金春流能楽師の山井綱雄さんに教えていただく、というもの。次回は2022年1月30日(日)、講師に同じシテ方金春流の、柏崎真由子さんを迎えて、より2月の公演の演目に即した解説を行うとのことで、こちらも楽しみ。お子様向けの「能楽師が先生!」も同日開催予定。

▼次回(1月30日)の詳細はこちら▼
青葉伝統芸能講座
能楽師が先生!

 講座では元文化庁長官の近藤誠一氏の文章を引きながら、新型コロナウイルスとの共生という話から始った。はて、能楽は? と思いながら聞いていると、西洋的に「自然やウイルスを支配しよう」とするのではなく、東洋的に「自然やウイルスと共生、共存する」ことを考えるべきという話に移り、そこから春日原生林のような自然をルーツの一つとする能楽、という話に繋がる壮大な導入で、体験まで含めて二時間強、飽きさせないプログラムだった。

 奈良の春日大社では約900年前からいまだに「春日若宮おん祭」という祭事が行われている。そこで能を奉納しているのは能の五流儀のなかで金春流、芸能が始まる前に神様をお連れする御旅所の扉を開くのは歴代金春御宗家(御家元)の役目だそう。「埒があかない」という慣用句の語源ともなっている「金春の埒あけ」がそれだそう。一般に能を大成させたと言われる観阿弥世阿弥が約700年前の人であるのに対して、それよりも古い時代から伝統を守り続けていることになる。

 その後の講座は、公益社団法人能楽協会による教育向け映像「能楽を通した 日本の美・心」を用いながらの、わかりやすいお話で勉強になった。休憩時間を挟んで、能「高砂」の一節(待謡)と、能の構エ、すり足、しおり(涙を押さえる様子を表す型)を体験。充実の内容であった。

www.nohgaku.or.jp

●映画等のこと7.01「劇場版 きのう何食べた?

kinounanitabeta-movie.jp

 連続ドラマ(テレビ東京)で放送中から楽しんでいた「きのう何食べた?」の劇場版を拝見してきた。原作はよしながふみによる漫画。主演は西島秀俊内野聖陽。脚本が、この半年私が熱狂していた朝ドラ「おかえりモネ」(NHK・主演:清原果耶)の安達奈緒子である。今回訴えたいのは、この安達の素晴らしさである。

 そもそもの前提として男性の同性愛者のカップルが主人公という、マイノリティを扱っている上に、ホームレスであったり、孤独死であったり、うーん、一概にそういう人たちが弱者と言うことはできないと思うが、しばしば社会的弱者の問題としてくくられるトピックを取り上げる内容に、モネで震災復興の現在や引きこもり、人生の中でのある種の”傷”が描かれていたことと重なって見えて、そうした社会の中の引っ掛かりを綺麗に、丁寧に描き出すのが上手い方だと感じた。

 また冒頭の”秋の京都”、”紅葉”、”ケンジの誕生日”、そしてその時の”ケンジの感情”、最終盤の”春の東京”、”桜”、”シロさんの誕生日”、そしてその時の”シロさんの感情”と、見事にシンメトリーに物語が作られていて、よくできた構成だと感じ入った。

 登場人物が当たり前だけれど、みんな完璧じゃないからこそ良い。シロさんだって嫉妬したり、焦ったり、苛立ったり。もちろん、ケンジもコヒナタさんもジルベールも、それぞれ心の揺れを感じて生きていて、それを丁寧に描いている。シロさんの両親だって、ケンジの母親だってそう、それぞれに感情があって、それらがきちんと表現されていて、素晴らしい作品だと思う。

●不安のこと⑥

 毎月、不安について考えている。不安を口に出すことが難しいこともある。少なくとも私はそうで、漠然とした不安を人に相談することが苦手であった。いや、今も苦手である。どうやったらそういう不安を人に話すことができるんだろう、あるいはどうやったら話してもらうことができるんだろう、そんなことを最近考える。

 もちろん、人それぞれではある。例えば私の場合は、毎日顔を合わせてよく雑談もする上司には、仕事の中での悩みは相談しやすい。とはいえ、プライベートな内容まで相談するには、抵抗がある。精神科の医師に対しても、具体的に何か症状が出てきたときや、仕事上にせよプライベートにせよ、ある大きさ以上の厄介事がある場合には話すようにしているが、あまりに些末な内容であると、相談することをためらうこともある。

 いずれにしても、いきなり核心に迫るのではなくて、少しずつ関係を築きながらであれば、私は話しやすく感じるけれど、その関係を築くということを非常に苦手としているのも私であるため、どうすればよいのかがわからない。

 困っている人に対して、あなたのことを心配しているから話してください、ということもあるだろう。それならと話してくれる場合と、却って身構えられてしまう場合とあると思う。私は後者だ。心配している等と言われたら、いや大丈夫ですと、むしろ無理をしてしまうことが多い。

 結論は出ないけれど、日々そんなことを考えています……。

■ちょっと関連

philosophie.hatenablog.comphilosophie.hatenablog.com