哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2022年1月の読書のこと「新聞記者、本屋になる」

■新聞記者、本屋になる(落合博/光文社)のこと

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人間関係(東京都渋谷区)

 東京・田原町の書店、Readin’ Writin’ BOOK STORE 店主の落合博さんの著作を読む。本好きではあったが特に読書家ではなく、本屋をやる気もなかった新聞記者がいかに本屋になったのか、その経緯が丁寧に描かれていて、一気に読んでしまった。まず動いてしまうことが大切、といったことが述べられている。

●読んだこと

 そもそも著者はいくつかの新聞社・雑誌社を経た後、毎日新聞社に入社し、運動部の記者やデスク業務で活躍した後、論説委員であった定年目前の58歳で退職し、書店を始めた人物である。

 退職前の2015年から新刊や古書を扱う、独立系書店への巡礼をなさり、また2016年からは〈2017年、「本屋」を始めます〉という名刺を作ったそう。書店では家賃や内装費などの突っ込んだ質問もして、多くの店主が親切に助けてくれたそう。起業塾にも通い準備を進めていたことが書かれている。

 そして出来上がった書店がどんなお店か、本書ではその特徴が述べられている。私が驚いたのはそこで開催されるイベントの多さだ。コロナ禍以前は月に10回前後、以後も月に5〜6回はなさっているそう。コロナ禍以後はオンラインも併用しているが、基本的にはお店に来たお客さんに棚を見せ、書籍を手に取ってもらう目的のため、ライブ(オフライン)を重視されているようだ。

 中でも私が気になったのは、著者自らが記者の経験を生かして行っている、ライティングのレッスン。わかりやすく文章は、良い文章なのか、と著者は問う。好きという言葉を使わずに好きを伝えられないか、と。

 著者が書店をやっていて楽しいのは、カウンターでお客さんと話す時間だという。そんな著者も学生時代までは人見知りだったとのこと。それがある種接客業のような記者経験で話せるようになったのだそう。

●考えたこと

 まず思うのは、著者の行動力の高さである。私にとって、何かをやりたいと思った時に最大の壁となるのが、その動き出しである。なかなか第一歩が踏み出せないし、また自分がこれから何々をするつもりだと、誰かに主張することも苦手である。とはいえ、その取っ掛かりの段階で悩んでいても、何も始まらないし何も解決しない。それはわかっているのだけれど、それでも動け出せないことも多い。

 その点、著者の動き出し方はスマートだ。本屋巡礼から始めたことが記されている。その中で実際に書店を経営している人々の話を聞いている。当たり前のことである。やっている人の話を聞いて、自分ができるのか否か、どうすればできるのかを考える、そんな当たり前が私はできないことも多い。

 私だったらと考える。著者自身も厚かましいことを聞いた旨を記している通り、素人で部外者である自分が、先達に対してそんな(厚かましい)質問をしていいのか悩んで、声をかけるのを諦めると思う。そんなことを聞いても不機嫌な顔をされるか、笑い飛ばされるか、等々と、妄想をしながら。

 実際は違ったのだ。もちろん、こうした誰かに聞いて、それにきちんと答えてもらえた、というのは著者自身のお人柄であったり、人に聞く以前にご自身で調べ、考えた上での熱意も含みでの成功であろうから、何でも声を上げれば人が助けてくれる、というのは違うと思う。ただし、私であれば躊躇して除外してしまうような道に、ヒントが転がっていることがあって、それを取りに行って仮に失敗しても大した不利益はなく、成功すれば大きく前進できる、そんな労を惜しんでしまうことがしばしばある。そうそれは、本当に失敗が怖くて躊躇しているのか、失敗に終わったときの徒労感を厭うているのか、ふと、私自身の気持ちがわからなくなった。

 著者はお店でたくさんのイベントを開いていらっしゃる。この2年ほどの新型コロナウイルス感染症の猛威にも関わらず、ライブを大切になさっている。

 私は著者の論とは少し違うかもしれないが、やはりオンラインでの会合よりも、ライブが好きである。もっともっとオンラインでの会合に熟れてくればそんな違和も感じなくなるのかもしれないのだけれど、私にとってオンラインはわざわざ足を踏み入れる場所なのである。

 ライブの会合は往々にして、電車を乗り継いだり歩いたり、時間をかけて移動して参加することになる。オンラインの会合はなんの準備もいらない。パソコンのスイッチを入れてアプリを立ち上げれば会合が始まる。それなのに私はライブよりオンラインの方に、遥かに億劫感を感じる。わざわざそこに参加している、という気がしてしまうのである。

 ところがこれはプライベートでの話である。ふと仕事はと考えると、わざわざ取引先の事務所へ出向くよりも、オンラインで済んだら楽だな、と思うことが多い(実際はコロナ以後、商談自体が激減しているため、オンラインミーティングをする機会も滅多にない)。これは職場がそもそもパブリックな空間だからではないか、と思う。

 私がプライベートでオンラインの会合に参加するとき、自宅というプライベートな空間を引き摺って、オンラインというパブリックな空間に入っていく必要がある。ライブであれば、電車や徒歩の時間はかかるが、身一つの移動だから気楽だ。対して仕事では、そもそも会社というパブリックな荷物を背負って移動するのであるから、それで電車に乗るのは億劫である。

 そんなことを、考えている。

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