哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2022年4月の徒然なること

■2022年4月の徒然なること

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LOTUS CAFE(千葉県千葉市

 私事ですが、年度替わりで課内の担当替えがあり、営業部門より広報部門へ異動しました。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

●絵画等のこと6.02「没後50年 鏑木清方」@東京国立近代美術館

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 現在の東京展が終わると、次は京都へ巡回するそうで、京都では年代順での展示を予定しているそうだが、東京では「生活をえがく」「物語をえがく」「小さくえがく」の三つのテーマでの構成。生活なら生活で、年代を越えて似通った作品が並べられ、面白かった。例えば酷似した焼き芋屋さんが60年の時を経て描かれていたり(焼き芋屋さんの店先に書かれた十三里は、"九里四里(くりより)うまい"の洒落で、九+四=十三なのだそう)。

 中でも面白く感じたのは「小さくえがく」ということで解説されていた、清方の"卓上芸術"と言う概念。対比される"会場芸術"、"床の間芸術"が美術館や床の間に飾られた作品を鑑賞するのに対して、机の上で手元の作品に親しむという意味合いだそう。現代のスマホやPC、あるいはネットの中の作品(データ)を手元でひとりで楽しむ、という絵画、映像の受容の仕方を予見したかのようで、恐れ入る。また展示の仕方としては、清方自身による自己評価(三段階)が付記されているのも、面白く感じた。

 空襲警報の中でも美人画や、日常を描き続けて、戦の絵は嫌いと言う清方。没後50年、実は最近まで生きていた人なのだと、鑑賞しながらハッとした。明治・大正・昭和を生きた人だが、作品には明治の雰囲気が色濃く残っているように思われ、実際明治期の風俗を描いた作品が戦災を逃れたことを知り、涙して喜んだという清方。平和な美しい日常、楽しき時代に生きた人物なのかもしれない。

kiyokata2022.jp

●独立開業のこと

 学生時代の友人が、埼玉県八潮市の淺子理髪店を間借りして、ハンドケアサロン SAkura Nailをオープンしたとのことで、お邪魔してきた。

asakorihatsuten.com

 淺子理髪店の南欧(と書いたところでホームページを確認したら英国の伝統的なBARをイメージした、とのこと)を思わせる洗練された店内、ハンドケアというビューティー空間に、私が存在していいのかビビりつつ……。

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 私はずっと、就職して企業で勤める働き方しかできていない人間で、いまだに大前提として勤め先があって、その余暇で古本市に出てみたり、哲学カフェを主催したり、読書会に出たり、ということをしている。本屋が本業になったらなあ、と思いつつも、あくまで趣味、非営利だからこそ楽しくできているのだと思う。

 だからこそ、友人のように自分の看板を背負って、リスクをとってお店を持つ、そうした夢に向かって飛び立とうとしている人は、ただただ尊敬しかない。

 どんなに周りに支えられても、自分で商いをするということは、相応のリスクを伴うもの。勇気を持って踏み出すのは本当にすごいこと。大きく前を歩いている友人を追いかけつつも、全力で応援できればと思う。頑張れ。

●絵画等のこと6.03「斉藤いつみ小品展 はなむけ」@Path Travel & Eats

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 八潮よりつくばエクスプレス東武アーバンパークライン野田線)を乗り継いで、柏へ向かう。Path Travel & Eats で開催していた"馬カフェ in 柏 / 斉藤いつみ小品展「はなむけ」"へ。

 お目当てにしていた、馬を描く画家 斉藤いつみさん は残念ながら在廊日ではなかったので、お目にはかかれなかったが、作品を拝見し、グッズ等入手し、大変楽しんだ。

●2022年4月16日 金春円満井会定例能第3部「山姥」他 @矢来能楽堂 のこと

 標記公演を拝見した。仕舞二番(「初雪」深津洋子「角田川」岩松由実)に続いて、能「山姥」(シテ:村岡聖美)を上演。山姥のことを曲舞(くせまい)にして謡うことで、京都で流行の百ま山姥と呼ばれる遊女(ツレ:柏崎真由子)が、思い立って善光寺に参る途中、越中越後の間を流れる境川近くで本物の山姥に出会う、というお話。詞章(台本)を読んでいくと遊女は、琵琶湖を船で渡り、北陸(現在の福井、石川、富山)を経て、長野県(善光寺)を目指している。現在の感覚だと東海道線だよな……、と思って調べてみると、やはりYahooさんは京都から東海道新幹線で東京まで行き、引き返す形で長野(北陸)新幹線に乗るか、安価に済ませるなら名古屋で特急に乗り換えることを勧めている。なるほど。

 本曲では女性の姿で現れた山姥が、遊女(百ま山姥)に宿を勧める。そして是非、山姥の曲舞を謡ってほしいと訴える。山姥で儲けてるのに、これまで山姥のことを顧みなかったでしょ、謡ってくれたらあたし、輪廻転生から抜け出して成仏できるもん、等と言って、自身が山姥であることをほのめかしたりして消えていく。そうして夜になって遊女の許へ山姥本来の姿で再び現れる。そこでの山姥・遊女の掛け合いがかっこいい。所の者(アイ:善竹大二郎)によると山姥は色々なものが集まってできたもの。妄執の雲の塵が集まって生まれたとも。自然界のあらゆるものの化身のように思われ興味深い。最終盤の山姥の舞は見せ場であり、躍動感にあふれている。

 白頭を被り能面をかけたその姿は、懐かしの山姥ギャルに、わりと似ている。

■ちょっと関連

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