哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

絵画等のこと⑦生誕100年 清水九兵衞/六兵衞 @千葉市美術館



 

清水九兵衞(7代六兵衞)/(4段目の2枚)清水宏

 千葉市美術館にて開催中の「生誕100年 清水九兵衞/六兵衞」展(~2022年7月3日(日))を拝見してきたので感想を記す。同時開催の清水九兵衞(7代六兵衞)の孫にあたる清水宏章の個展「朱」(~5月19日(木)・観覧無料)もオススメである。

■絵画等のこと⑦生誕100年 清水九兵衞/六兵衞 @千葉市美術館

 清水九兵衞は100年前の1922年に名古屋で生まれた。出生時の名前は塚本廣。第二次世界大戦への出征を挟んで、建築や彫刻を学んだ後、1951年、京焼・清水焼窯元の家元である6代清水六兵衞の長女と結婚し、6代の養嗣子となる。清水洋/裕詞として作陶に取り組むが、土という素材に疑問を感じ、五東衞として彫刻作品も発表、1968年からは清水九兵衞として彫刻、アルミニウムを用いた巨大作品に取り組む。1980年6代の急逝を受けて7代六兵衞を襲名するが、陶芸家7代清水六兵衞としての作品発表は1987年まで待たねばならなかった(作陶を再開したのは1985年頃だそう)。2000年に当代(8代)に六兵衞を譲る、2006年に惜しまれつつも逝去。

 展示冒頭に登場する「花器(オブジェ、目、方容)」に目を惹きつけられる。ごつごつした土の感触が残る立方体の各面の中央を、中心に向かって潰していったようなフォルムで、頂点の一つが下にくるように台座に飾られている。その形から、花器というタイトルは想像がつかない。普通、花器といえば水を張り花を生ける機能を有するため、その形は上に向かって凹んでいる、つまり下に向かって膨らんでおり、水を張る内側と、人の目に触れる外側とが、きっぱりと分けられることが多い。一方で目の前のそれはあらゆる方向に凹んでおり、同様に膨らんでいた。内側が外側に露出しており、外側が内側に隠れていた。それがはたして花器という名をいかにして全うするのか、私にはわからなかったけれど、そのものとしての存在感は強く感じた。

 九兵衞の陶芸作品は他にも、機能性であったり合理性、あるいは陶器という常識を無視したものが多いように感じた。例えば「(作品)」はやはり立方体で棚付きの箱で(どこか拡大した植物の細胞を思わせるのだが)、くしゃっと潰れている。同時期の「ユニット・オブジェ(一輪挿)」は16点組の作品で、「(作品)」よりもやや小ぶりな箱(立方体)たちがそれぞれ凹んでいたり、柱があったり、棚があったりする。同じ形のものがないバリエーションだ。どれもが違っていて、しかしどれもが同じ顔をしているように見える。アニメ「エヴァンゲリオン」に登場する、大量の綾波レイモデルのクローンを思う(そしてやはり、細胞に、あるいはエヴァ使徒に似ている)。

 上述した作品は1950年代後半の作品なのだけれど、時代が下って60年代の後半、九兵衞の作品はやはり不自然に潰れている。「赤絵花入」等がそれだ。陶器とは普通、四角形や円形の直線や曲線で縁取られて、しっかりした形を持つものだと思っていたが、目の前に展示されたそれは水のように流動的で、形を持たない柔らかいものに見える。つまり硬くて形が変わらない陶器が、軟らかいものに見えるのだ。不思議である。

 そんな風に土を使いこなして、思いのままの形を作っているように見える九兵衞であるが、その素材には違和感を抱いていたようで、やがて金属彫刻に活動の場を移すことになる。曰く土は饒舌であり、金属は寡黙であるのだという。どういうことであろう。会場内で九兵衞が出演したテレビ番組が上映されていて、そこで本人や長男征博(後の8代)が言うことには、土(陶芸)は焼いてみないとわからない、せっかく思った通りの形ができても、焼いて縮んでいくと思っていなかった形になる点が九兵衞の性格に合わない。対して金属(彫刻)はたたけば凹むし曲がる、思い通りにできるのがよいのだという。

 パブリックアートとしての野外彫刻が日本で注目され始めたのは、1960年代のことだという。1980年代以降、そうした野外に展示される大きな金属の作品に、対候性(太陽光・温度・湿度・雨等の屋外の自然環境に耐えうる性質)の観点から、朱色の塗装が多くなされるようになる。九兵衞作品もしかり。ただし九兵衞は後に、屋内展示の作品についても同様の塗装を施すようになったようで、独特の凹凸が出るように加工を施したアルミニウムの質感に朱色の塗装を施した見ばえを気に入ったようである。

 工場のパイプや工業用機械など、何らかの実用性を持つように思わせるそれらは、実は何らの実用性も有しておらず、その大きな身体と反比例する存在意義の見えなさ故に、私を惹きつけた。裏はどうなっているのか、内側はどうなっているのか、九兵衞はたくみに観者の関心を引いてくる。彼の作品はしゃべりすぎる土を作った陶芸も、寡黙な金属を使った彫刻も、どちらも何らかの生命体のように見える。細胞か、モノリスか、あるいは、神か……。

 千葉市美術館1階のさや堂ホールには孫清水宏章の陶芸作品とともに、九兵衞の大きな構造物が並べられている。こちらに語り掛けてくる孫の作品の背景に、寡黙な祖父の作品は確かな存在感を放っている。

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