哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

映画等のこと⑪「ツユクサ」

■映画等のこと⑪「ツユクサ


この記事は星乃珈琲店のスフレパンケーキを食べながら書きました。

 映画「ツユクサ」を拝見したので、感想を記す。※ ネタバレを含みます。

映画『ツユクサ』公式サイト (tsuyukusa-movie.jp)

 本作の主人公・五十嵐芙美(小林聡美)は、(物語が進むにつれてわかってくることなのだけれど)息子を7歳の時に亡くしていて、どうやらそれが原因でアルコール依存症である。アクセサリーの加工等を生業とする潮田欽三(瀧川鯉昇)が会長を務める断酒の会に参加して、日々海辺でお酒を捨てたりしている。人にあげるのではなく捨ててもったいないと思うことが大切なのだそう、本当かどうかは知らない。

 芙美には勤め先であるタオル工場の仲間がいる、櫛本直子(平岩紙)と菊地妙子(江口のりこ)だ。直子には小学生の息子・航平(斎藤汰鷹)と再婚した夫・貞夫(渋川清彦)がいて、妙子には娘がいる。3人が3人とも、お父さん・お母さん・子どもといった家庭ではない。
 これは先日、私が取引先の方から聞いた話。渋谷区の離婚率が高いという話から、ある会社との打ち合わせで参加者の半分ほどがバツイチ・バツニといった離婚経験者で、「普通の人」は半分もいなかった、という。「普通の人」という表現は不適切であるとが(ついでに離婚歴をバツとして言い表すことも差別用語らしい)、一方でいまだにそれなりの年齢(この年齢については男女差があり、昔よりは結婚適齢期が上方修正されているようには思われる)に達したら結婚して、子どもを産み、夫婦は生涯添い遂げる、こんな人生が「普通」であるという幻想は、少なくない人々の意識に染みついている。
 ただし、件の会合に出席した半分ほどが「普通」ではない、という知人の話を踏まえるに、もはやこの「普通」の判断基準は、まさしく幻想でしかない(割合が50:50のものの一方を「普通」と判断することは、「普通」の定義に反するであろう)。本作は、現代の日本にありふれた女性たちの日常を描いた作品であるといえると思う。

 芙美と航平は親友である。航平は天体観測が趣味、物語は彼が夜空を見上げて隕石の落下を観測するところから始まる。その隕石は芙美の運転する車にぶつかって、車は転倒する。隕石が人に衝突する可能性は1億分の1だそう。作中でも紹介されているが「1954年11月30日正午過ぎ、アラバマ州タラディーガ郡シラコーガの近傍のオークグローブにあるホッジス家の屋根を突き抜け、室内の木製のラジオを破壊したうえ、昼寝をしていたアン・エリザベス・ホッジス夫人(1920-1972、当時34歳)に当たった。ホッジス夫人は左尻と左腕にひどい打撲を負ったが、歩くことはできた。」(ホッジス隕石 - Wikipedia)という事例があるそう。芙美に起こった隕石衝突は奇跡である。なお芙美はこの事故で大した怪我は負わず、事故自体もコミカルに描かれている。

 芙美は篠田吾郎(松重豊)という警備員に出会う。その出会いはロマンスに発展していく。吾郎の趣味は草笛を吹くこと。ツユクサがお好みだそう。芙美も草笛の吹き方を習う。隕石にぶつかったこと、草笛が吹けたこと、どちらも芙美の日常に起きた奇跡である、日常は奇跡に溢れている、本作のWEBサイトを見ると、そんなような売り文句が書かれている。
 それはそうだと思う。誰かと出会い、何かを教わり、新しいことをできるようになる。それは奇跡と言っていいし、私の日常にもそんな奇跡があれば嬉しい。ただし、毎日の仕事や家事等に追われるうちに、そうした奇跡に気が付きにくくなっていると思う。私は(そして多分あなたも)、かけがえのない日常をすごしている。大切な誰かと出会い、重大なことを知らされている。しかしそれは私やあなた以外の人々にとっては、大切でも重大でもないことは往々にしてある(そもそも誰かが隕石にぶつかったこと自体、その誰かや隕石に関心を持っていない人にとっては、大切でも重大でもない)。だから私やあなたが、その奇跡に気が付かないといけない。いや別に、気が付かなくてもいいのだけれど、気が付いたほうが人生は楽しくなると思う。

 私が芙美の感情を理解できないのはラスト。芙美は航平に貰った月の石を、断酒の会の潮田に頼んでペンダントにしてもらっていたのだけれど、それを海に投げ捨てる。貞夫・直子・航平は物語の終盤、貞夫の転勤に伴って新潟に行ってしまう。伊豆(そうそう、本作の舞台は伊豆である)にいたころ、貞夫と航平の親子関係は微妙であったが、新潟に行った後、二人で仲良く釣りをする様子が写真付きの手紙で、芙美に報告される。そしてペンダントを捨てるのだ。私にはその心の機微がわからない。わからないものはわからないままにしておくしかないのだけれど。
 あと、航平をルートビアに誘う吾郎は少し格好いい。

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