■映画等のこと12.01「犬王」友魚のこと
この記事は Lotus cafe のアイスコーヒーを飲みながら書きました。
映画「犬王」を拝見したので、前回に続いて感想を記す。※ ネタバレを含みます。
古川日出男による『平家物語 犬王の巻』を原作とした劇場アニメーションを拝見し感想を語り足りないのでまだまだ記していく。
●友魚のこと
本作には友魚という琵琶法師が登場する。壇ノ浦出身。ところで壇ノ浦とはどこであろう? 源平合戦の終結の地として名前は知られていても、場所を知らない人もいるかもしれない。壇ノ浦は現在の山口県下関市にある。北九州市門司区(能「和布刈」の所縁の地である早鞆神社がある!)とを結ぶ関門トンネルの本州側の出口なので、まさに本州のはずれの地といえる。
ご存知の通り平安末期・源平合戦の時代、壇ノ浦の戦いにおいて平家軍は敗北、安徳天皇、二位尼、平知盛らが入水した。本作は室町時代なので、それから二百年近く後の出来事だろうか、安徳天皇とともに沈んだ三種の神器(アマテラスがニニギに与え、天皇家が代々その正統性の象徴としてきた宝物)の一つである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ・草薙剣とも)を探しに来た都人に請われて、友魚とその父は海中からそれを引き揚げるのだけれど、剣の呪いで父は亡くなり、友魚は視力を失ってしまう。
その後、友魚は都を目指して旅立つことになるのだけれど、その途中で琵琶法師の谷一に出会い、自身も琵琶法師になる。名前を彫った木札を互いに触らせ、互いに名前を教えあうシーンが出てくる。谷一に連れられて何年かの旅路の果て、都にたどり着いた友魚は覚一座という琵琶法師の職能集団(座)に入り、覚一から「一」をもらって名を友一と改める。友魚にはずっと父の亡霊が憑いているのだけれど、名を変えると見つけられなくなると言って、父は怒る(これは、ラストシーンの伏線ともなる)。
ところでこの覚一座は作中終盤には当道座と名を改める。足利尊氏の従弟で突然視力を失ったという、明石検校覚一によって開かれた、盲人の地位向上、生業安定を目的とした組織だそう。この時代、様々に口伝されていた『平家物語』を覚一本としてまとめ上げ、現代にも続く正統な『平家物語』を作り上げた人物だ。
対する友魚は、都で出会った異形の猿楽師・犬王とともに、語られていない平家の亡霊たちの物語を探して、作品にしていく。言わば正統な『平家物語』覚一本に漏れた、平家の物語を能として、音楽として、世に伝える。そして「俺たちはここに有る」という意味を込めて、自ら名を友有に改め、友有座という(ロックバンドのような)メンバーを集めるのである。そして……、というのが、本作の友魚を巡るお話。
私が関心を抱いたのは友魚の名前の変遷についてである。何らかの集団に入るために名前を改める、という点で私が真っ先に思い出したのは映画「千と千尋の神隠し」にて、主人公千尋が油屋で働くために主人の湯婆婆に本当の名前をとられて、千と改名させられる点だ(同様にコハク川の神・ニギハヤミコハクヌシはハクと名を改め湯婆婆に支配されていた)。このように古来日本では(というか他の国でも同様の考えがあったそうだが)本当の名前(諱・忌み名)はその人の霊的人格と結びついており、それによって他人に支配されうると考えられており、目上の相手の本名を口にするのをはばかる、という風習があった(官職名で呼ぶ等)。
あるいは鎌倉時代から江戸時代にかけて行われた、一字御免・一字拝領といった風習もある。これは主君の名前の一字を家臣に与えることで、通字(家で代々受け継いでいく漢字、徳川(松平)家の「家」「康」「忠」など)でない方(偏諱)を与えることが多かったそう。例えば「豊臣秀吉→徳川秀忠」「徳川家光→徳川光圀」等である(以上参考:諱 - Wikipedia)。
またあるいは、それこそ観阿弥・世阿弥のように、芸能者が時宗の開祖一遍が説いた阿弥陀仏の教えを信仰する男性信徒が授かる法名である阿弥号を名乗る、という事例もある(以上参考:阿弥 (法号) - Wikipedia)
以上のように、名を変える理由・事情は様々である。ともあれ、名とは単なるラベリング以上の力を持っている、そう考えられてきた歴史がある。友魚の名前の変遷を見ていくと、壇ノ浦の五百(いお)友魚(親がつけた名前であり血縁や地縁)→覚一座の友一(先輩であり上司がつけた名前であり社会)→友有(自らがつけた名前であり個人や自由)とその名前となった理由、象徴されるイメージは多様である。そして、その人の本性・人格を本当に表しているのは……、それが本作の結末に結び付くのかもしれない。