哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2022年7月の読書のこと「平家物語 犬王の巻」

 ■平家物語 犬王の巻(古川日出男/河出書房新社


この記事は Lotus cafe のアイスカフェラテを飲みながら書きました。

 映画「犬王」を拝見して、前々回前回と感想を記した。今回はその原作に当たる古川日出男平家物語 犬王の巻』の感想を書こうと思ふ。 ※ ネタバレを含みます。

劇場アニメーション『犬王』

 

●読んだこと

 さて、本作の特徴は何と言ってもその、細切れな文章である。作中何度か「この物語は、走る、疾る」通り、改行や反復が多い、センテンスが短い、リズミカルな本作の文体は口承文芸に近い旨、解説の池澤夏樹に指摘される。「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」にて古川日出男の走り続ける文体を良しとして『平家物語』の翻訳を依頼したその人である。

 さて、私は前二週に渡って映画「犬王」のことを描いてきた。大筋は映画と変わらない。
 壇ノ浦に、友魚(ともな)という少年がいる。草薙の剣の呪いで父を失い、自身も盲となる。琵琶法師の弟子となって都へ上る。
 近江猿楽比叡座の棟梁の子弟である、犬王と知り合いになり、仲を深める。
 犬王は忘れられた、正本より外れた平家の物語を猿楽の能にする。芸を極めることで自身の穢れを美しくする。
 友魚は友一、友有と名を変えながら、犬王のことを語り歌う。平家物語犬王の巻である。
 犬王が演じるのは、「重盛」「腕塚」「鯨」そして「竜中将」といった、誰も知らない平家の物語だ。

 映画だと、アニメーションでそれとなく示されていたのかもしれないけれど、はっきりとは分からなかった事情が、文章で読むと合点がいく。理屈が通っている。面白い、よく考えたものだと思う。

 犬王の容姿については、具体的には触れられていない。だからこそ、アニメーションで見せられるより、リアルに感じられれるように思う。"毛が生えてはならないところに毛を生やし、爪が生えていなければならないところへ歯のような白い塊を持つ”等と表現されはする。しかしその程度だ、多くは"醜”だの"穢さ”だのとして、表現される。それ故に、私の脳はあらゆる"醜”を、あるいは"穢さ”を妄想する。

●考えたこと

 作中、犬王が上演する「腕塚」は一ノ谷の戦いで右腕を斬られた平忠度を祀ったもので、兵庫県神戸市長田区にあることが解説の池澤により示されている。調べてみると同じ長田区内に胴塚もあるそうだ。藤原俊成に師事し、和歌に秀でていたエピソードは、能「忠度」「俊成忠度」といった曲に伝わる。

 本作ではちょいちょい、能楽(猿楽)の歴史が解説されているのが嬉しい。知らなかったことを知ることができる。猿楽の面を、翁の舞に求めているが、その仮面は追儺の儀式から来たという。大晦日の鬼やらいである。本来は疫病の鬼=儺をはらう方相氏が黄金の四つ目の仮面をつけていたそう。興味深いのは鬼の敵対者であった方相氏のほうがいつのまにか鬼、悪鬼と誤解されていったことだ、と古川、否、本作の語り手は言う(そう言えば、本作の語り手は誰なのだろう?)。

 あるいは、以前の猿楽には劇である「猿楽の能」のみならず、傀儡(くぐつ)が含まれていたという。操り人形である。あるいは輪鼓(りゅうご)や八玉(やつだま)といった曲芸、品玉(しなだま)などの奇術が含まれており、その昔猿楽は散楽といい、またその昔、散楽は百戯(ひゃくぎ)と呼ばれ、唐土伝来の百種に及ばんとする雑多な芸の謂いであったことが語られる。本作ではその中にあった、一、二種の幻術こそ、犬王の父、比叡座の棟梁に美を与え、犬王に醜を纏わせたものなのだと理屈づける。

 こうしたことは、なかなか能楽の歴史上語られえない物語である。だから、本作自体が能楽の、猿楽のあるいは散楽の忘れられてしまった部分を掘り起こす物語であると言える。それと同時に、『平家物語』の正本から漏れた物語を、猿楽と琵琶法師の両面から追う、二つに分かれていた朝廷は将軍足利義満により一つにまとめられ、現代の平清盛を目指したともされる義満により、あるいは明石検校覚一により『平家物語』は、観阿弥世阿弥により「猿楽」は一つにまとめられる。そこから漏れてしまった異説・異聞を本作はまとめ上げて物語とする。

 上手く作ったものだと、面白いと思う。

 などと考えていて、ふと、現代の能楽界、あるいは、伝統芸能全般も本道と異端があることに思い至る。そこは優劣ではなく、血脈をはじめとした筋や声の大きさにより正統性が判断される世界である。古川がそうした現代まで続く、伝統芸能界の闇を風刺するつもりで本作を書いたのだとしたら、なおさら面白いと思う。

 

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