哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2022年10月の徒然なること

■2022年10月の徒然なること

 勤め先の近所に所在する 鳩森八幡神社(千駄ヶ谷) にて「第一回千駄ヶ谷鳩森おとなり映画祭」というイベントが開催される。神社の境内に能舞台があるのだけれど、そちらを背景としてスクリーンを立てて、千駄ヶ谷に関連する映画を上映、さらにゆかりのゲストを招いてトークイベントを実施するとのこと。

 近隣に国立能楽堂があることに因み、能楽関係では「よあけの焚き火」(監督:土井康一、主演:大藏基誠、制作・配給:桜映画社)が上演され、土井監督、基誠師がゲストスピーカーとして登壇されるそうだ。

 同映画が公開されたのは三年半程前。公開時に拝見した際には「能楽師狂言方:大藏家vs野村家のこと」(2019年2月10日)というふざけた記事で感想を記していたけれど、 amazon prime video にて配信されていたので、イベントに先駆けて改めて映画を拝見した。今回はその感想 他を記します。

●映画等のこと13.01「四畳半タイムマシンブルース」

 渋谷のシネクイントに向かった。途中、ロフトの前に道祖神があり、思わず写真を撮った。完璧にお上りさんである。映画は「四畳半タイムマシンブルース」を拝見した。
 上田誠ヨーロッパ企画による舞台「サマータイムマシンブルース」を、森見登美彦が自作『四畳半神話大系』の世界観でリメイクした、小説『四畳半タイムマシンブルース』が原作。脚本は上田誠。監督の夏目真悟は、湯浅政明監督によるアニメ「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」等にスタッフとして参加していたそう。
 原作を丁寧にアニメ映画化した感じで楽しめたが、田村くんの「もっさり」の方向性は私が原作を読んで想像した「もっさり」と違い、残念であった。また来場特典として、森見登美彦の短編小説があったのだけれど、すでに公開一週目分の配布が終了とのことで、頂戴できなかった。少し悲しくなった。

 絵画や立体作品のグループ展。お目当てであったねずみを書く画家である Mika さんの在廊日が私の休日であったのは幸い。ゆっくりお話できて楽しかった。ご自作についてお話伺ったほか、他の作家さんの作品についても、ここが凄いと教えてくださった。

 Mika さんの作品に出てくるねずみたちは、みんな生き生きとしたキャラクターを持っていて、こんなことを考えているのかなと、想像したくなる。新作の山葡萄とねずみを描いた作品を前に、ねずみがバッグを持つこと自体ファンタジーなのだけれど、それでも少しリアリティを出したくて、布ではなくて枝を編んだものにした、みたいなお話を伺う。たいへん贅沢な時間であった。

●映画等のこと13.02「よあけの焚き火」

 前述した通り本作の感想は、三年半程前に一度執筆している。だから重複するのだけれど、やはりパッと見て気になったのは、描かれているものがどこまで本当なのだろうか、というところ。
 本作では能楽師狂言方大蔵流の大藏基誠と康誠の親子が、山の中にある日本家屋に行って、二人きりで狂言の稽古をする。近くに住む老人・宮下とその孫娘の咲子に出会い、交流する。やがて親子はその稽古場を去り、舞台へと戻っていく。その物語の中の、どれが本物でどれが嘘なのだろう。ドキュメンタリー風の体はしていて、能楽師親子が本人役で登場して稽古の様を見せてくれるというのは、まさに本物の(現実の)能楽師がどんな方法で、どんな決意で稽古に取り組んでいるのかを伝えると思う。一方で、例えばこうした山奥の一軒家の稽古場があるのだろうか。
 大藏基誠は、狂言方大蔵流の宗家である二十五世大藏彌右衛門、の次男(長男は彌太郎千虎)、流祖は南北朝時代の玄恵法印に遡るというので、700年の伝統を引き継いでいるということになる。父から子へ、その伝統がいかにして伝わっていくのか、その様子が臨場感を持って描かれている。
 作品の序盤、やや堅い親子が印象的である。基誠自身、子どもの頃に父に連れられて兄と、男だけで来た場所だそう。(基誠の)母は来ず、代わりに母が大切にしていたピアノが運び込まれたそう。そんなピアノを、災害で両親を亡くした咲子が弾き、康誠が(康誠の)母から渡されたお守りの鐘を渡される、これはいったいどういうことだろうか。なんとなく、男が受け継いでいく狂言という芸に対して、女が受け継ぐ「男たちを見守る」という役目のようで、強く男女を分かつようにも思われ、その点は気がかりである。とはいえ狂言方能楽師では原則的に女性が認められていないという現状を踏まえると、そうした点は致し方ないのかもしれない。
 三年半程前にも書いたが、親子が生活の中で実際の狂言の真似をするさまが、明るく楽しい。附子で砂糖を仰ぎながら盗み飲むシーンを再現しながら、味噌汁をすする。こんなことを通して親子は段々と柔らかくなっていき、咲子が狂言を習う段になると俄然楽しそうだ。康誠が咲子にお辞儀の仕方を教えるシーンは、教えられ教えていく、伝統芸能の継承といった趣が強く美しい。咲子が習う狂言の型は犬の鳴き声、蝸牛の真似、笑い方等。また本作では親子の稽古や狂言の真似等のシーンで様々な狂言の演目が登場する。主人の言いつけを足の痺れを理由にサボろうとする召使いが登場する「痺」や先述の毒と言われていた砂糖を盗み食べる「附子」、「横座」「栗焼」等である。
 そうした能楽能楽師の現実を題材として使いながら、物語それ自体には多くのフィクションが含まれているように感じる。宮下や咲子、二人にまつわるエピソードは作っているのだと思うし、あんな稽古場という場所があるのか否か、そこで描かれるエピソードは、創作のように思うけれど、一方で狂言の芸や本質を次代に伝えていくという親子の意気込みはリアルで、それさえきちんと伝われば良いのではないか、そんなことを考えながら拝見した。
 というわけで11月12日(土)・13日(日)千駄ヶ谷鳩森おとなり映画祭の内、13日の3作目として、本作をお楽しみいただけますので、是非。よろしくお願いいたします。

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