哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2023年1月の読書のこと「日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ」

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ(森下典子/新潮社)のこと


LAITIER(東京都渋谷区)

 映画「日日是好日」(主演:黒木華)が公開されたのは2018年のことである。本作はその映画の原作となったエッセイで、映画では黒木華が演じた典子こと、森下典子による作品。元は2002年に飛鳥新社から発刊されたものを、新潮社が2008年に文庫化している。

 描かれているのは1956年生まれ、神奈川県横浜市出身の著者が20歳の頃から25年習い続けたお茶の教室のことなので、1976~2001年頃の話。お茶の先生である武田先生とのお稽古の様子やその中での気付きについて、柔らかく丁寧な描写で書かれている。

 こんな風に細かに年代を確認したのは一つには、原作は意外と昔の作品なのだなと私が感じたため。初出として「平成14年1月飛鳥新社より刊行」の旨が書かれていて、え、随分昔!? と驚いて、今西暦に直してみて、何だ2000年代かと安心して、そして2000年代になってすでに20年以上が過ぎていることに愕然とした。典子がお茶を始めたのはさらに25年前、今から45年前程のことであるため、典子と一緒に仕事を始めたミチコは就職した貿易会社を2年で辞めて、田舎に戻って見合いを始めたり、就職先が見つからない典子は親から見合いを勧められたりする。時代である。

●読んだこと

 そんな典子がご近所の「タダモノでない」茶人のタケダのおばさんのところへ、ミチコとともにお茶を習いに行くのは、大学三年生の時、母親の勧めであった。母曰く、お辞儀の仕方が違う、とも。映画では樹木希林が演じていたため、私は武田先生についてかなり年配のイメージをしていたが、典子が20歳で入門した際に武田先生は44歳だったという。

 私はお茶のお稽古がどんなものか知らなかったけれど、どちらの手で道具を持つか、どのように柄杓でお湯を掬うのか、どの高さから茶碗に注ぐのか、そうしたことを一つ一つ、口頭で注意されるようである。入門した日に、典子は先生にお茶を点ててもらうが、その後はお正月等、節目節目にお点前をいただく描写があるのみであるので、どうやら先生の所作を見て覚えるのではなく、基本的には生徒はひたすら先生の言葉に従って身体にその所作を染み込ませていく、という稽古のようである。それをメモに取るのもダメ、なぜ? という疑問を抱くのもダメ。はじめ典子はそうしたお茶の世界について厳格な約束事に縛られて窮屈と感じたそう。その感想がどのように変化していくかが、本書を通して丁寧につづられている。

日日是好日
 稽古場にも、この額が掲げられている。
「あれ、見て!」
「ほんとだ。先生のところにあるやつだね」
 見慣れた五文字を私たちは見つめた。
「……典ちゃん、これ、どういう意味?」
 ミチコが聞いた。
「『好日』って、『いい日』っていう意味でしょ」
「……それで?」
「だからさ、毎日がいい日だっていう意味でしょ」
「そのくらい私だってわかるよ。……でも、それだけ?」
「え? 『それだけ?』って、どういうこと?」
その時、隣で黙ってい聞いていた先生が、クスクスと笑った。

 これは先生の稽古場を離れて、二人が大規模なお茶会に参加した際の一幕である。お茶会の様子も、当時の典子同様、私にとっては未知のもので新鮮であった。社交界をイメージしていた典子が実際に参加して抱いた感想はバーゲン会場だったそう。

●考えたこと

 ともあれ、本書のタイトルともなっている「日日是好日」という禅語の意味、というか典子がその言葉をいかに理解したかは、本書の終盤で触れられる。その額の言葉しかり、掛け軸の言葉の意味、茶花のこと、お茶のお稽古とはこういうものであるという著者の気づき、そうしたことを読みやすい章立てで語ってくれている。

 軸について「瀧」と書かれたもの、暑い日にその文字の形を見て、あー、涼しい~と感じたエピソードが書かれている。達筆で何が書かれているのかわからない文字を読むのではなく、絵のように眺めればよい、著者はそんな気づきを得る。こうした気づきはいつも体験したエピソードとともにある。お茶の稽古は夏のお茶と冬のお茶とで、まったくお作法が変わってしまうそうである。せっかく覚えかけた夏のお茶をきっぱり忘れて冬のお茶を習う。できるようになってきたと思ったら、新しい道具が出てくる。和菓子や茶花は、毎週季節にちなんだ新しいものが出される。それら一つ一つにも武田先生なりのもてなし、意味が込められている。干支の茶器に至っては、毎年どころか12年、干支が回ってきた年の最初と最後しか使われない。そんな繰り返す四季、年月を通して、著者の体験を通した気づきを、読者も追体験できることが本書の魅力である。

 ここに著者がこんなことを書いていた、と手短に説明したとしても、とても伝わらない。そもそもお茶の体験を通して、長い年月をかけてしか伝わらないことを、著者は一冊の本を通して読者に追体験させようとしている。それを上手くなしえているからこそ、本書はこれだけの人気となったと思うのだけれど、私がその本の内容をここで言葉で言い表すことは不可能だ。それくらい、言葉ではないのだと思う。体験を通した感情や感覚が伝えたいことなのだと思う。私は本書を読んで、お茶の世界に大変な興味を抱いた。

 著者は周りが就職、結婚・出産する中で、きちんとした就職先がなく(女子大生氷河期であったそう)、出版社でライターのアルバイトをすることになる。焦りの中で、お茶なんて続けていてよいのか、という気持ちになる。そんな中で武田先生より「いま、ここにいなさい」と注意を受ける。あるいは戦国時代、明日をも知れない世界の中で一国を背負った戦国武将たちがお茶を愛し、「一期一会」を楽しんだことに思いを馳せる。茶室の外の世界の雑事を置き去りにして、いま・ここに集中できるのがお茶らしい。大変興味深く思う。そんな気持ちにさせてくれる、お茶を習ってみたいと思わせてくれる本であった。

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