哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2023年3月の読書のこと「すばらしい暗闇世界」

■すばらしい暗闇世界(椎名誠/新潮社)のこと

LOTUSCAFE(千葉県千葉市

 2023年1月28日(土)に神楽坂のかもめブックスで本書『すばらしい暗闇世界』(椎名誠/新潮社)が平積みされているのを見つけて手に取ったけれど、そのあとに用事があったので結局購入はしないままになってしまった。翌月の2月20日(月)に、月末に撤退してしまう津田沼パルコに行った折、B館4階のACADEMIAくまざわ書店にて本書を見つけて、津田沼パルコでの最後の買い物として購入した。本書の感想を以下に記す。

●読んだこと

 本書は好きで嫌い、という感情の話から子どもの頃に自宅の屋根裏を探検したこと、そして暗闇の話に入っていく。いわば怖いもの見たさ、ということであろうか。筆者自身の閉所恐怖症に気が付いたのは、オーストラリアの暗く狭い水中洞窟でのダイビングの時だったそうで、本書の説明によると過呼吸を起こして危うく死にかけたようである。オーストラリア人のインストラクターに助けられたそう。そのように本書は暗く狭い物理的な暗闇のことから話を始める。私はてっきり丸々一冊そうした暗闇について話が進むのかと思っていたのだけれどそうではななくて、海外の人々の暮らしや食べ物、地球上の水のこと、そして世界中の毒を盛った生物のこと、宇宙のことと、縦横無尽に話は展開される。どうやら物理的に見えない暗闇だけでなく、私たちの知識の光の外の暗闇へも探検に連れ出してくれる本であるらしい。

 作中、たびたび月刊雑誌「ナショナルジオグラフィック」についての言及がある。「ナショジオ」からの引用が多すぎやしないかと思ったのだけれど、本書に収められた話の多くはナショナルジオグラフィック日本版WEBでの「【連載】椎名誠の奇鬼驚嘆痛快話 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト (nikkeibp.co.jp)」が初出だと解説(斎藤海仁)に示されていて、納得した。なお本書には「SFマガジン」からの記事も採録されている。

●考えたこと

 本書には「ナショジオ」以外にも多くの本が紹介されている。魅力的な本が多く今後の読書に、大いに参考になると感じる。

 例えば序盤の明るさ・暗さの話では、明るいところと暗いところがあることを許容できるヨーロッパ人とすべてをまんべんなく明るくしないと気が済まない日本人の対比が紹介され、椎名はこの理由にヨーロッパと日本で夜の暗さは同じでも昼の明るさははるかにヨーロッパのほうが暗い、ということをあげている。ともあれそうした中で取り上げられるのは節電意識のない駅の駅長や、街に音楽を垂れ流す店に意見する哲学者・中島義道の『うるさい日本の私』(中島義道/角川書店)等である。あるいは『夜は暗くてはいけないか―暗さの文化論』(堀正雄/朝日新聞社)も大変気になる。
 あるいは宇宙の話の中で触れられている「ザ・ムーン」というドキュメンタリー映画に興味を持った。これはNASAアポロ計画(有人月着陸計画)を追ったものだそう。

 こうした宇宙関係でいくと、国際宇宙ステーションでし尿を含んだあらゆる水を再生循環水として利用しているという話が出てくる。確かに水のない宇宙空間ではそうでもしないと乗組員の飲み水の確保ができないだろう。500mlのペットボトル一本をロケットに乗せて打ち上げるためにかかるコストは200万円だそう、そうそう大量の水を地球から持っていくわけにもいかないのだろう。
 水というと地下エネルギーの枯渇以上に水不足が世界では問題となっている点も本書で知った。地球上の水のうち、実に97.5%は海水だそうで、淡水は2.5%、しかもその大半は極地で凍っており、人類が飲み水として使いやすい形の淡水は0.01%に過ぎないとか。本書では海水をRO(逆浸透)膜を用いてろ過、淡水化する技術も紹介されている。いずれにせよ、日本にいて当たり前にある水(資源)がどこでも当たり前にあるわけではない、ということは気に留めていきたい。

 他のエピソードからも、例えばかつてエスキモー(生肉を食う人々)と呼ばれた極北に住む人々を、その呼称は差別だからた、今はイヌイット(真の人間)と呼んでいるけれど、彼ら自身は生肉が大好きで、生肉を食べることに誇りを持っているので、エスキモーで全く構わない、という話が出てくる。これなんかも日本をはじめとしたいわゆる先進国と現地の感覚の違いであって、先進国の認識が的外れなことは多いのだろうな、と思う。
 なおエスキモーの人々がすむ極地は森林限界といわれる、寒すぎて木が生えない土地だそうで、そもそも生肉を煮たり焼いたりすることができず、植物を食べることもできないので、生肉を食うのだとか。人間が採取できない短い苔や雑草がカリブーのお腹でドロドロになっていたりするのを、捕らえたカリブーの生肉につけて食べたり、アザラシから出てきた寄生虫を食べたりと、私には想像もつかない食事の様子が、多数紹介されている。つくづく、自分が見ている世界がすべてではないと感じる。

 様々に紹介されるエピソードの中で、アリやハチの「群知能」について、大変興味を持った。アリたちは朝偵察に行ったアリたちの情報を、巣で待っていた個体は触覚をぶつけることで知ることができて、群全体でその日何匹が餌をとりに出かけるかを決めるのだとか。いわば群全体が一つの知能として思考しているらしい。
 私の体の中で、無数の細胞がさまざまに意見を交わして、あっちの刺激を受け、こっちで反応が起こり、一つの私という個体を作っていることに似ているように感じる。あるいは人間たち一人一人も、時に手を結び、時に敵対しあいながら、この世界という知能を構成する部分に過ぎないのかもしれない、そんなことを思ったりもする。

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