哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

映画等のこと⑱ アニメ「王様ランキング」の歌舞伎的側面 等

■ 映画等のこと⑱ 「王様ランキング」

 ご存知の通り年末年始(二〇二三〜二四)、風邪を引いていた。多少症状が落ち着いてやることがない時、例によってアニメを観た。アニメ「王様ランキング」は十日草輔による漫画を原作に、二〇二一年十月〜翌年三月までフジテレビ系列にて放映された作品である。また二〇二三年には同作の各キャラクターにスポットをあてた前日譚、後日譚等を描いた「王様ランキング 勇気の宝箱」も、やはりフジテレビ系列にて放映された。私はアマゾンプライムビデオで一昨年(二〇二二年)、本編は視聴していたのだけれど、今回スピンオフ作品「勇気の宝箱」を視聴したことで改めて本編を観直したくなり、イッキ観した次第である。

osama-ranking.com

 

以下、烈しくネタバレします。

 

● アニメ「王様ランキング」の歌舞伎的側面

 本作は巨人のボッスが治めるボッス王国の王子、ボッジが主人公である。ボッジは生まれつき非常に非力(短剣も振れない、水の入ったバケツを運べない)な上、耳が聞こえず言葉が喋れない。そのため国民からも馬鹿にされており、次期国王としてふさわしくないと思われている。ボッジには腹違いの弟ダイダがいて、こちらはプライドが高い描写はあるものの、年齢なりに(ボッジもダイダも多分ティーンエイジャーであろう)しっかりしているようである。ボッスは死に際して遺言を残し、ボッジに王位を譲るが、王妃でダイダの母であるヒリングらは、それを無視してダイダを王につかせる。ボッジは旅に出るが、旅中に襲われたところを親友のカゲに助けられ、冥府のデスパーのところで修行をし、最強となる。ボッス王国に戻ると、ダイダの身体は先王ボッスに乗っ取られており、冥府の牢から連れ出された罪人たちが暴れまわっている。ボッジは自国に平和を取り戻せるのか……、というのが粗々のストーリーである。

 複雑である。カゲはボー王国にて暗殺等を行うカゲ一族の生き残り、一族皆殺しにされそうなところを母が命がけで逃がしたのだけれど、忌み嫌われる種族のため満足な仕事にもつけないところで、ボッジに出会う。はじめはボッジに対して追い剥ぎのようなことをするのだけれど、ボッジの人の良さや、ボッジがカゲと話すのを楽しんでいる様子(カゲは何故かボッジの言葉を理解できる)を見てボッジの境遇の悲惨さに気がついたこと、(王城でボッジとダイダの木刀での試合を見て)ボッジの勇気に触れたこと等から、常にボッジの味方でいることを表明、親友となっていく。このボッジとカゲの友情物語であり、ボッジの成長物語として見ていくと、本作はとても楽しくわかりやすい。冥府でボッジが師事するデスパーも金に汚い面はあるが、良き師匠であり真っ当な大人として描かれており、本編の半分くらいまでは非常に胸が熱くなる良いお話である。

 しかし、それ以外は複雑である。例えば王の槍アピスは、はじめ先王の遺言を重視しボッジへの王位継承を画策するが、途中、本作の黒幕である鏡の女ミランジョへの恩義から彼女につき、しかしミランジョが連れ込んだ冥府の罪人に邪魔者として殺されそうになる。彼が重視したのが国なのか、先王なのか、ミランジョなのか、今ひとつ不明である。

 またソードマスターでボッジの剣術指南役であったドーマスは、ダイダへの王位継承を支持するが、王となったダイダからそのことを、自身(ドーマス)の弟子(ボッジ)に対する裏切りと非難され、忠誠心を示すためにとボッジ暗殺を命じられる。暗殺は実行するが、結局そのことで帰る場所もなくし、ボッジのことを思い悩み続け、ボッジの帰還後には謝罪をし、改めてボッジに忠誠を誓う。

 そんな一時の感情で動く奴らが、物語後半に向かってわらわら出てくるため、話は混迷を極めていく。黒幕ミランジョと冥府の六人の罪人(罪人同士ももちろん一枚岩ではない)、ダイダの身体を乗っ取ったボッス(この人が一番謎で、あっさりと六人の罪人によって地下牢に閉じ込められたと思ったら、戻ってきて瀕死のボッジたちを回復魔法で助け、罪人の一人オウケンを岩に封印する。そして勝つ気満々でボッジと戦い、敗北する。無敵なのに……。)、前述のアピス、ドーマスにベビン、ドルーシを加えた四天王、王妃ヒリング(この人の行動は継子ボッジと実子ダイダを想ってのものなので、割合にわかりやすいのだがしばしば癇癪を起こす)、デスパーとその兄デスハー、冥府騎士団、カゲとボッジ、彼らが互いを信じ合い、疑り合うため、城の内外で滅多矢鱈に争いが発生する。もはやなんのための争いなのかが、よくわからない。地上で暴れまわるオウケンの回収をしたい(あわよくばボッス王国を乗っ取りたい)デスハーを、ボッス王国の地下にてドーマスとホクロが止め、最終的にボッジが退けるのだけれど、その争いなんてホントに無意味なのである。地上ではデスハーの弟でボッジの師であるデスパーが、オウケンをなんとか止めようとしているのだから、君たち争わずに協力したまえ、と思う。

 しかし物語の盛り上がりのためには、争いが必要なのだろう。論理的に話し合って最適解を選んでしまっては、物語は盛り上がらない。物語を推し進めるために、一時の感情だけで人は敵にも味方にもなる。そして物語をさらに読み進めさせるために、誰もが意味深な動きをする。

 こうした物語展開、演出技法に、私は歌舞伎的側面を感じた。やたら多くの人物を舞台に上げ、端役に至るまで因縁の網を張り巡らせ、仇だなんだと言って相争わせる。善と悪と綺麗に割り切れない二項対立の間で、弱き人々は揺れ動く。それは現実社会でも同じなのだけれど、物語の演出上その揺れ動き、左右に躓き転ぶさまはより大きく描かれる。それ故ほんの些細なきっかけで「王様ランキング」のキャラクターたちも、歌舞伎の登場人物たちも、過剰に転がっていき、しばしば不幸を得る。ただボッジだけが己を見失わずに中央を歩き続ける、そんな印象である。そんな中で我々視聴者は、キャラクターの首尾一貫性を求めてはいけないのであろう。その場その場で起こる争いの中で人物たちが垣間見せる、勇気やかっこよさをただ愛でていれば良いのであろう、と思う。

● 冥府の剣王 オウケンにみる不条理

 さて、そもそもボッジは何故そんなにも非力なのだろうか。それは先王ボッスが力を欲し魔神と契約したからである。ボッスは自分の寿命と引き換えに、これから生まれてくる自分の子どもの力を己のものにする。故にボッスと、同じく巨人族で世界一強い女性とされるシーナとの間に生まれながら、ボッジは幼子のような容姿で非力なのである(耳が聞こえないことに関しては、この呪いのせいなのかは不明)。

 似たような境遇にいるのが、デスハー、デスパーの弟オウケンである。三者の父で先の冥府の王サトゥンは、自分たち神一族が衰退していることを感じ、不老不死の研究をする。人々の命を犠牲に不老不死を追い求める父を止めるため、デスハーは弟たちとともに先王を打ち倒し、冥府の王となる。サトゥンが死んだ際、その呪いがオウケンにかかってしまい、オウケンは不老不死であるが心を持たず、人の血を求める怪物になってしまう。

 ボッジ、オウケンに共通するのが、父の行いの結果として、本人はまるで責任のない呪いを受けてしまう、という点である。このような不条理というと、カフカの『変身』に登場する、ある朝目覚めたら虫になっていたザムザが思い起こされるが、よくよく考えると、(もしかしたら描かれていないだけで、何か理由があるのかもしれないが、小説の描写を信じるのであれば、)なんの謂れもなく虫になってしまうザムザに対して、ボッジやオウケンについては父の行為の所以という理由があるのである。つまり本人たちには不条理に感じられるかもしれないが、物語上はきちんと因果のあることなのである。なるほど、だから本件は不条理とは呼べないのかもしれない。

 むしろボッスと魔神の契約の対価として、ボッジの力が支払われるという点から、子が親の所有物として扱われている、という点から読み解くべき事象なのかもしれない。父の行為の報いを子が受ける、ボッジやオウケン程の大きな不利益ではなくとも、現実世界でそうしたことは起こりうることだ(例えば、親の借金を子が肩代わりする等)。そうした現実の家族関係でかけられる迷惑を象徴的に、過剰に表現すると、ボッジやオウケンのようになるのかもしれない。

ミランジョの罪は許されるべきか

 なんだか本作はろくなお父さんが出てこない。一方で、身を呈して我が子を守ったカゲの母やボッジの母シーナ、継子ボッジと実子ダイダを大切にするヒリング等、お母さんは良い人が多い。ただし、男性が悪く女性が良いという単純な図式では、もちろんない。再三述べた通りに本作の黒幕ミランジョは女性である。故に、やはりまるでダメなお父さん vs 母は強し、と読み取るべきであろう。

 ミランジョはホウマ国の魔女の娘であり、ホウマが神たちに戦いを挑み、ギャクザ国と同盟を結んだことで、大変悲惨な人生を送る。それは、可哀想である。しかしその悲惨さ、可哀想さを考えてもやり過ぎの、自己中心的な動きをする。何しろボッジの非力も、ボッジの母シーナの死も、ダイダがボッスに身体を乗っ取られるのも、全てミランジョの企ての結果なのである。それでいながら、物語のクライマックスに、ミランジョはなんとなく許されたような、いい話のような感じで処理される。いや、何となく許された感じになるまでなら、まあそういう考え方もあるだろうなと思える。私がより苛立ちを覚えるのは、ダイダの願いによりミランジョが復活したこと、玉突きでオウケンが、そしてデスハーが不利益を被る点である。結局、ミランジョは奪う存在なのだな、と感じる。

 なお前述のボッジの非力等をミランジョのせいと書いた件だが、更にその裏には、ボッスと一緒にいたいミランジョ、ミランジョにノーと言えないボッスという構図が背景としてある。どう考えてもボッスがどこかで止めてあげないといけないのである。断れないのがボッスの優しさのような描かれ方であるが、単なる欲望、ミランジョに嫌われたくないという見栄のようにも思われる。

 思えば本作は欲望の物語である。王様ランキング一位になった王様は、神の宝物庫から好きなものをもらえるのだけれど、多くの王様はあるものを選んで、気が狂っている。ボッジが旅の途中で出会う狩人が、一位になって気が触れたキングボ(没落した王族で冥府の六人の罪人の一人)の父、という考察もあったが、ともあれ、その気が狂ってしまうのも欲ゆえにである。力を欲したボッス、不老不死を欲したサトゥン、ボッスを欲したミランジョ、それだけではない、ボッス王国の乗っ取りを欲したデスハーは弟デスパーにたしなめられている。

 そうか、このたしなめてくれる人がいるということは、大切なことなのだ。ドーマスは、もちろん自分の出世だけを欲したわけではないと思うが、多少なりともそうした気持ちがあってだろう、ボッジ暗殺を実行する。そして後にそれを(ボッジとすごした時間、ボッジのひたむきさ故に)後悔し、償うべく行動する。カゲですら、当初は自分勝手に、ボッジの持ち物を奪うが、ボッジの真っ直ぐさに触れて考えを変える。欲望してしまうことは仕方ない、それに気づかせてくれる人がいるか、そして気がついたときに、きちんと立ち止まって正しい道を進めるか、それが大切なのかもしれない。その点ミランジョも、そばに寄り添ってくれる人がいて、多少なりとも正しい道に戻ろうとした(カゲを助けた等)から許されたのだろう。私自身は未だ納得できないけれど、多分そんな理屈なのだろうなと思う。

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