哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2024年1月の読書のこと「遥かなる水の音」

■ 遥かなる水の音(村山由佳 / 集英社)のこと

Cafe FIVE(千葉県千葉市

 年末年始に風邪を引いて、以来咳が続いており、かかりつけ医に相談したところ、リフヌアという咳止め薬を処方された。確かに咳は止まったのだけれど、副作用で味が感じにくくなるというものがあり、現在、食べ物の味がよくわからない(とても薄味に感じる)。この話はまた改めて書かねばと思っている。

● 読んだこと

 本書はフランス・パリに生活する久遠周(くどうあまね)の死をきっかけに、彼の遺言に従い遺灰を巻くべく、周りの人々がサハラへ旅する様子を描いている。周の姉でやはりパリに暮らす久遠緋沙子、病(作中、病名は明かされてなかったと思うが性病への感染を想起させるシーンはある)で衰えゆく周を世話した、彼の恋人のような立場の存在であるジャン=クロード・パルスヴァル(二人は同性愛者である)、周の学生時代の同級生であり、日本で輸入雑貨店〈FUNAGURA〉を営む、早川結衣と奥村浩介。彼らに、タンジェから四人に帯同する現地ガイドのサイード・アリを加えた五人が順々に語り手となって物語は進行する。時折、周の亡霊の思念も挿入される。多分ジャン=クロードが五十代、緋沙子が三十代、周、結衣、浩介は二十代という年齢設定だと思う(どこかで明示されていたかもしれないけれど、忘れた)。

 一行はスペインのアルヘシラスから船でジブラルタル海峡を渡り、対岸のモロッコ、タンジェへ。そこからモロッコ国内をフェズ、マラケシュと移動し、エルフード、メルズーガよりサハラに入る(周もかつて訪れている、タンジェのカフェ・ハーファで一行が出会った老人(ポール・ボウルズの知り合いだそう)からも、メルズーガから入って見る砂漠は、ザゴラとはスケールが段違いと太鼓判を押されている)。これはかつて周が一人旅をしたルートなのだそうで、その度の終盤、サハラの手前の街で周はジャン=クロードと出会ったのだそうだ。また、この行程でサハラに入ることは遠回りであるそうで、辿り着くだけで一週間程度の旅になるようだ(帰りはマラケシュから飛行機で帰るようだが)。

 旅の間の描写が美しい、作中人物と一緒に旅をしているような気持ちになれる。例えば、タンジェは様々なジャンルの白人芸術家が刺激を求めて訪れた土地だそうで、ジャン=クロード曰く、ドラクロワマティス、ピエール・ロティ、サミュエル・ベケットアレン・ギンズバーグウィリアム・バロウズローリング・ストーンズらがタンジェに通い詰めたそうである。

 あるいは旅の間中、イスラム教のラマダン(イスラムの暦で九番目の月に行われる断食月)にあたっており、ガイドのサイードは日中食事はおろか暑い中水を飲むこともできない(そのため、一行が昼間食事を取っている際は席を外している)。レストランも観光客向けの店は営業しているが、多くは閉まっているそう。周の姉、緋沙子も終盤の三日程、ラマダンを体験する。私の持っている文庫版には終わりに著者の村山と作家の沢木耕太郎との対談が収録されていて、村山自身が取材旅行のうち三日程、ラマダンを体験したことに触れられている。試しにラマダンをして神を冒涜することにならないか確認したところ、自分たちの神を敬ってくれていることでとても嬉しいと言われて、実践したとのこと。ラマダン一日目が一番つらいというサイードから緋沙子へのアドバイス、緋沙子の感じたことや体調の変化はきっと、村山自身が体験したものなのだろうなと思う。

 他にもジブラルタル海峡の地中海と大西洋の境目(色が違うらしい)、フェズのホテルで緋沙子が聞いた夜明けのアザーン(詠唱)やなめし革染色専門の集落タンネリの強烈な臭い、そして何より終盤の砂漠の大きさやラクダの乗り心地。様々な光景、体感がリアルに表現されていてとても良い。

● 考えたこと

 ひとつだけ、物語の中盤に、事故で飛行機が墜落するシーンがある。その出来事は作中人物に大きな影響を与え、また人物同士の関係性にも影響を与えるもので、重要なシーンのひとつなのだけれど、一方で私自身は事故にせよ、事件にせよ、人の命が失われる物語に触れると、そのことが物語上どれだけ必要だったのかなと、考えてしまうことが多い。もちろん現実世界では毎日数え切れない人数が死んでいき、それなりに大きな事故や事件も、世界規模で見れば毎日起きているはずである。だから物語のなかであっても、人は死ぬべきである。ただ、物語のためだけに死ぬ人があってはならないと思う。それが物語の中の人物であったとしても。周の死に始まる物語それ自体は私にとって受け入れやすいものであったが、その中で飛行機事故だけ、やや不自然に感じてしまったのだと思う。

 ともあれ、総じて楽しく読んだし、中でも旅先の描写をリアルに感じたのは上述したとおりである。村山と沢木の対談においてサハラの砂が赤く染料のように衣服に染み付いてしまうことが述べられている。作中舞台をよりリアルに感じさせるよい付録であると同時に、緋沙子の名前について、緋は緋色(濃い赤色)、沙は砂と同じくすな、まさごの意なので、まさに赤い砂漠=サハラのことなのだなと理解ができた。

 また本作は、それぞれに関係性は違えど周を愛する人が死を悼むという物語に加えて、他者を理解していく物語でもある。サイードイスラム教徒にとって、ジャン=クロードのような同性愛者は受け入れがたいようであるが、その見方にも作中で変化が見られる。終盤に登場するベルベルラクダ引きの青年ハールーン(彼はきつて周のガイドもしたのであるが)、彼の弟も同性愛者であったそうで、宗教への理解、性的指向性自認について、触れられる。さらに本作で登場する人々は男女のカップルですら、その関係性は様々、そうした点でも、考えさせられる作品である。

 周の追悼のために、周が旅の中で見聞きしたものを追体験する。その一行の、一人一人に感情移入するだけでなく、私自身がその追悼の旅に加わったかのような感じも受ける。とても良い旅=読書体験をした気分である。

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