■ 映画等のこと㉑「風よ あらしよ 劇場版」
フロムトップ(東京都目黒区)
『風よ あらしよ』(集英社)は村山由佳による、伊藤野枝の評伝小説であるが、本作はそれを映像化した作品である。吉高由里子主演により、2022年にNHK BSプレミアムにて連続ドラマとして放送されたが、本作はその劇場版である。私の家はBSが映らないので、地上波で再放送されないかと思っていたのだけれど、今回劇場版が公開されていることを公開後しばらくして知り、地元千葉県では上映が終わってしまっていたため、恵比寿ガーデンプレイス内の東京都写真美術館での上映を観に行ってきた。
伊藤野枝役の吉高由里子は、2024年1月からNHKにて放送中の大河ドラマ「光る君へ」では紫式部役を務めており、2014年放送のNHK連続テレビ小説「花子とアン」では、村岡花子役を務めた。いずれも女性であることが現代よりも特別な意味を持っていた時代の女性文筆家である。揃ってNHKの作品であるため、狙ってキャスティングしているのだろうけれど、確かに吉高のハキハキとした演技は、時代を切り開く女性作家のイメージによく合う。
以下、普通にネタバレします。
● 「風よ あらしよ 劇場版」のこと
伊藤野枝は1895年、現在の福岡県福岡市の出身。都内の女学校を卒業後、地元福岡の男性の元へ無理やり嫁がされるが出奔。女学校の英語教師であった辻潤(稲垣吾郎)と同棲を始める。
「元始、女性は実に太陽であった」の序でおなじみの雑誌「青鞜」に感銘を受けて女性の解放を志し、平塚らいてう(松下奈緒)に師事、自らも「青鞜」の編集に携わり寄稿するようになる。後にらいてふから「青鞜」の刊行を引き継ぐが、一年あまりで廃刊させているそう。
無政府主義者の大杉栄(永山瑛太)と知り合い、惹かれ合う。大杉は妻の堀保子(山田真歩)、女性新聞記者の神近市子(美波)、野枝と、三人の女性と同時に関係を持っており、自由恋愛の実験と称していたとか。神近による大杉殺人未遂事件(日陰茶屋事件)を経て、大杉と野枝は同棲する。
1923年に起こった関東大震災後、夫妻は甥の橘宗一とともに、陸軍憲兵大尉甘粕正彦(音尾琢真)らに連行され、虐殺される。
映画は冒頭より、井戸の底のようなところから空を見上げる映像(甘粕事件で殺害された野枝らの遺体は古井戸に遺棄される)と、吹けよ荒れよ風よあらしよとの言葉。
序盤より、無理やり挙げさせられた祝言での親族からのセクハラ言動や、夫からの暴力など、ショッキングなシーンが続く。六〇〇ページ超えの大著を二時間強の作品にまとめているため、展開は非常に早く感じる。
辻潤は確かに、野枝の女学生時代に『青鞜』を紹介する等進歩的であったのが、野枝との生活の中で、嫉妬や慣れやプライド等から、足尾銅山鉱毒事件に憤る野枝を「センチメンタリズム」として蔑んだりするようになるのだけれど、その変わり身の速さが、いささか速すぎるのである。野枝と結ばれて三シーン後くらいには、酷い男になっている。
小説では辻の変貌がもう少し丁寧に描かれていたと思う(読み返さなければならない)。いずれにせよその辻の変化は彼の弱さや卑小さ故であり、私はそこに共感し、同属嫌悪のような感情を抱く(肯定はしない、反面教師にすべきことである)。
野枝が進んでいくのについていけず、彼女の考えを否定してしまう辻に対して、彼女の批判を素直に受け止め、謝り、改善しようとするのが大杉である。
もっとも大杉は、妻からただ助平なだけと言われるシーンがあるが、まさにそのように見える。自由恋愛を男女平等の実現としているが、それは何ら関係がない由、野枝から反論される。これは神近に刺されても文句が言えない、だらしのない、責任感のない男である。批判をも素直に受け入れる柔軟さこそ、ともすると責任感のなさ故なのではないか、とさえ思ってしまう。
大杉もまた、小説のほうが魅力的に思えた。やはり映像だと、その感情の揺れ動きが描ききれず、野枝とすごして惹かれていく時間も駆け足のため、感情移入しにくい。ともあれ、演じた瑛太は、眼光の強さ等の風貌が現実の大杉に似ているところもあり、適役だと感じた。
ラスト、野枝たちの命は不条理に失われる。やはり映像だと、震災から虐殺までの流れも早く、味気ない。大杉と野枝の娘で二人の没後、福岡に引き取られた魔子が、夫妻を支えていた村木源太郎(玉置玲央)と対話をするシーンで終わる。やはり村木についても、小説での方が丁寧に描かれているため。小説では魔子との別れのシーンが沁みるのだが、仕方ない。
と、原作と比較して、否定的なことばかり書いてしまったが、上映時間にうまくまとめて、映像としてはよくできていると感じた。当時の服や家の様子も、観て理解できるのは映像ならではの魅力である。良い作品だった。