■不安のこと
●不安のこと⑦
本ブログ「哲学講義」ではこれまでも何度か「不安のこと」について取り上げてきた。私の不安についてはしばしば、労働と結びついている。何故か。それは労働は逃げられないものだからである。
その前提自体が間違っている可能性はある。しかし多くの人間にとって労働とは、行わねば日々の生活を営んでいくことができなくなる不可欠なものであり、また現代の日本において労働とは会社勤めをするにせよ、自営業を営むにせよ、他人との折衝を伴うものである。もちろん、全く自給自足の生活もできなくはないと思うが、恐らくそれは他人との折衝以上の困難をはらんでいる。そして他人との折衝はしばしば不安を伴う、故に労働=不安なのである。
もちろん、労働以外の場でも他人との折衝は発生する。しかし労働以外の場では、厄介な他人との折衝をひとまず棚上げすることができる。いや実際にするべきではないのかもしれない。私としては棚上げにして、落ち着いたら出してきてみようと思っていても、先様からもう結構と縁を切られることも多い。だから厳密にはできないのかもしれないけれど、でも棚上げして、しばらくして棚から出してきてみて、その頃には抱えていた厄介自体が霧散していて、普通にまた交流が始まることもあるので、それで良いのだ。
一方で労働においては、なかなか棚上げすることができない。棚上げすることのできない業務にその厄介な他人との折衝がこびりついていたりする。その厄介があまりにも多くなれば、私は不安をいだき対処法を見失って仕事を休んだり辞めたりする。棚上げという中途半端な手段を取れないので、こちらから全てを切り捨てる、という判断になるのである。
しかしこのところ、労働の中での他人との折衝であっても、棚上げしてしまって良いような気がしてきた。その他人との折衝が伴う重要そうな業務を重要視しているのは、実は私ではないのである。私が重要だと思っているだけならば、とりあえずできない以上、あんまり重要じゃないと思うようにすれば良いだけである。それでもその業務が重要だと思っている誰かがいるならば、その人が私に重要だと言ってくるであろう。私はその人に他人との折衝を委託すれば良いだけである。
ある私の抱えている業務について、重要である、あるいは、緊急であると言ってくるのは、基本的には直属の上司である。というより、直属の上司以外の人物から重要性や緊急性を主張されたときのことこそ、厄介な他人との折衝と言えるのかもしれない。ともあれ、お陰様で件の直属の上司とは言葉が通じるし、重要性や緊急性の感覚が私とだいたいあっていて(というか4年の歳月をかけて、私が上司のそれを学習した)、労働をしていて困難(業務過多という困難は常に抱えているが膨大な残業がそれをとりあえず解消してくれるため、ここでは)=厄介な他人との折衝が発生する場合、私にそんな交渉できるわけないでしょ? といって放置する。
ちなみに、この厄介な他者との折衝において登場する他者とは、ほとんど社内の人間である。仕事とは社外の厄介な人間に対して、頭を下げて金をぶんどってくるものだと思っていたが、大抵の社外の人間はよき協力者で、大して頭も下げない私のことを大いに助けてくれる。厄介なことを言い出すのは、大抵社内の人間である。
そうしたわけで、とりあえず不安を感じさせる他者との折衝を、この数ヶ月全て棚上げすることにしている。そんな私を上司はとりあえずそのまま活用することにしたらしいので、ひとまずそれでいいのだと、この状態がはらむ問題点をまるごと棚上げにして楽しく生きているのが、今の私である。
私には社会がクローン・トルーパーのように見えることがある。しかし実際には、クローン・トルーパーである必要はないのである。クローン・トルーパーたちはどうして、クローンであるのにキャプテンとそうでないのがいるのだろう? そんなことを考えている。