哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

肯定する/否定すること

 

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■肯定する/否定すること

 世の中、よくわからん。しばしば起こるのが、否定すると嫌われる、という現象である。何も、自分に関係ない人、物のことを否定しているわけではない。ただ意見を求められたら、素直に言葉にするようにしている、それが反感を買うことがあるような気がする。そして否定されて不機嫌になる人に限って、日頃は何だかよくわからん方向のことを攻撃し続けていたりして、自分は正しい、これだけ支持者がいる、あいつはわかってないと、主張し続けていたりする気がする。そうか、だから私はその人の支持者にならないといけなかったのか、そうしないと仲間に入れてもらえなくなるのか、等々、考えてみたりする。

 反対の立場で考えると、確かに否定されるのは嫌である。しかし、意見を求めて、否定されるのは別に嫌じゃないか。それよりも思わぬところから槍が突き刺さってきて否定されるのは、たいそう痛い。とはいえ、その槍の出現を、自ら意見を問うという行為で誘引したのか否かは、あくまで主観的な問題なのかもしれない。私にとって、そんなことを望んでいなくとも、今ここで反対を表明してあげなければと熱い思いを抱いて、声を発してくれたのかもしれないし、そもそもここで横槍の例えを出して、まるで否定することを攻撃のように例えたが、否定的な意見を出すことは、自分とは異なる意見の表明に過ぎず、善悪、攻撃と守り、敵味方の話ではないのである。その辺の認識を誤らないようにしないといけないのかもしれない。

 ところで、そういった横槍が突き刺さることは痛い。どれだけ肯定されて生きてきても、たった一度、思いもよらぬ否定を受けると、それがそのすべての肯定を打ち消してしまうほどの、衝撃を持ち得たりする。きっとそれに対する防御も必要なのだと思うが、今は自分が肯定するないし否定するのお話である。

 例えば仕事において、自分Aと相手Bがいるとして、BはAに対して案件Nについて意見を求めるとしよう。Nは計画通りに進めば90%の確率で5の利益を生み出し、10%の確率で-10の損失を生む。AがNに対して否定的見解を述べた場合、Bはふてくされて生産力が-1となるとして、さらに80%の確率でNは廃案となる、一方で肯定した場合はBの生産力は0でNは100%実行されるとしよう。

 

(肯定した場合の期待値X)

X =0.9×5+0.1×(-10)

 =3.5

(否定した場合の期待値Y)

Y =1.0×(-1)+0.2X

   =-0.3

 

 これは全肯定したほうがいいということである。なるほど、これからは否定しないとめっちゃヤバいことになるやん、という確信がない限り、とりあえずイエスマンで生きていこうと思う。