哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2023年8月の読書のこと「海は地下室に眠る」

■海は地下室に眠る(清水裕貴/角川書店)のこと


閉業した成功舎クリーニング店(千葉県千葉市
閉じたシャッターが能舞台の松のようで格好良い

 『海は地下室に眠る』(清水裕貴/角川書店)と出会ったのは、先日千葉市美術館に行った折にミュージアムショップであるBATIKA(バチカ)にて著者サイン入り本が販売されていたためである。寡聞にして、著者のことも本書のことも存じ上げなかったが、主人公の松本ひかりが千葉市美術館の学芸員で、おはなしの題材も美術館近くの「蓮池」の地が舞台とのことで興味を持ち、求めて帰って拝読した。大変面白い作品だったので、感想を記す。

 JR稲毛駅で所用を済ませ、京成稲毛駅の古びたホーム脇の踏切を抜ける。静かな住宅街を五分ほど歩くと、松が群生した小高い丘が現れる。
 千葉市の海側に位置する稲毛区は、かつて別荘や料亭が立ち並ぶ風光明媚な避暑地だった。 昔は丘の向こうに海が広がっていたが、高度経済成長期に大規模な埋め立て工事が行われて、海岸線はトラックが行き交う国道になっている。私は『海は地下室に眠る』の主人公・ひかりが、”駅前のコンビニで買ったソフトクリーム入りかき氷を食べつつここを歩いた(p.6)”と書かれていたことを思い出しながら、丘を蛇行する遊歩道を上っていった。本書を読んだ時、冷凍庫に入っているカップアイスのかき氷にクリームが入ったものを、ガリガリと木のスプーンで削るひかりの様子を想像して、あれ食べながら歩くかなあ? と思っていたのだけれど、実際に現場に行って京成稲毛駅前のコンビニエンスストアミニストップであることを知り、ひかりが食べているのがハロハロであろうという推察ができ、ひかりが食べ歩きをしていることが腑に落ちた。

 そのようなわけで、本書を読み終えた私は早速に、作品の舞台の一つである稲毛に聖地巡りに赴いたわけである。

 

(左)かき氷を食べ終わる頃にちょうど松が途切れて、『市民ギャラリーいなげ』の敷地が見えてきた。(p.6)
(右)その足 元で小さな子供が「鯉さんの餌……」と呟いている。学芸員はお喋りを切り上げて、書類と本と菓子の箱がぐちゃぐちゃに積み上がった館長の机から、 金魚の餌を取って子供に渡した。(p.9)

 

(左)神谷伝兵衛は浅草の神谷バーや牛久シャトーなどを創設したワイン商である。(p.11)
(右)神谷伝兵衛邸。ぶどうの蔦が絡まる装飾。

 

(左)神谷伝兵衛邸内装。ぶどうの木の柱。
(右)神谷伝兵衛邸。清水裕貴の作品紹介。

 

(左)迎賓館とは、国道を挟んで向かいにあるハンバーグチューン店のことだ。(p.8)
(右)国道の反対側に、かつては海岸線にあったのであろう鳥居が見える。

 

(左)稲毛駅から旧海岸線に向かって歩くと、浅間神社の隣に愛新覚羅溥傑仮寓という建物が現れる。(p.41)
(右)愛新覚羅溥傑仮寓は伝兵衛邸に比べると簡素だが、細かなところに趣向が凝らされた上品な日本家屋だ。(p.42)

 

(左)愛新覚羅溥傑仮寓内装。
(右)嵯峨浩の書。

 

白雲木(もともとは宮中でしか育てることが許されなかった「禁廷木」)の種を嵯峨浩が賜ったとか。

 物語は千葉市美術館で学芸員をしているひかりが、ひょんなことから伝兵衛邸の地下に眠っていた、赤いドレスの女の人の絵と出会うところから始まる。作者も何もわからない謎の絵の正体に興味を持つひかり。そして同じ頃、ひかりは職場にて「NEW OCEAN」と題した企画展示を、先輩学芸員の補佐として担当することになる。これは千葉市美術館所蔵の古い作品と、現代の若手作家の作品をコラボさせる企画で、現実に千葉市美術館で行われた「とある美術館の夏休み」に似ているように思うのだけれど、そちらがモデルだろうか?

 ともあれその展示準備を進める中で出会った作家たちとのやり取りの中で、ひかりは自分の祖母が生前受けたインタビューの書き起こしや録音原稿に触れることになり、そこには件の絵画の過去や祖母の過去が語られていて……、といったおはなし。

 千葉の蓮池というと、本当に千葉市美術館のある辺りのことで、私は千葉市民でこのブログでもしばしば千葉市美術館に言及しているように、あの辺りにはよく足を運ぶのだけれど、戦前、花街として大いに栄えていた等は知らなかった。本書では途中から、ひかりを中心とした現在(2018年から2020年)の描写と、ひかりの祖母の玉子を中心とした第二次世界大戦中の描写とが交互に語られる。先に写真のキャプションとして記した通り、現在の様子は非常にリアル、そう作品世界の中でも発生する、新型コロナウイルス感染症の大流行についても丁寧に描写されているのだけれど、それだけに過去の描写も丁寧に取材なさったのだろうなという事細かな描写で、在りし日の千葉駅周辺や稲毛駅周辺の様子が語られ、想像が膨らむ。楽しい、楽しいからこそ読み終えてすぐに、稲毛まで行ってしまったのだけれど。

 また玉子の若い頃、嵯峨浩との関係が物語の中心となってくる。嵯峨浩とは愛新覚羅溥傑と結婚した侯爵家の女性であり、流転の王妃として有名。愛新覚羅溥傑は、清国最後の皇帝で満州国初代皇帝であった愛新覚羅溥儀の弟。テレビ朝日開局45周年記念ドラマとして2003年11月に放映された「流転の王妃・最後の皇弟」(出演:竹野内豊常盤貴子)を観た中学生時代の私は浩の自伝である『流転の王妃の昭和史』(新潮社)を読むなど熱中したのだけれど、久々にそのときの気持ちを思い出すことができた。稲毛に二人が住んだ家があることは随分前に知っていたのだけれど、本書を読んだことがきっかけで、実際にそこを訪ねる勢いを得たことは良きことであった。浩の自伝も読み直したいし、自分の地元の歴史についてより深く知りたいとも感じた。

 そんなわけで、千葉市民には特におすすめの小説。歴史小説であり、ミステリーであり、ドキュメンタリー、多様な魅力の詰まった作品である。

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