哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2023年7月の読書のこと「信仰」

■信仰(村田沙耶香/文藝春秋)のこと


cafe Five(千葉県千葉市

 久しぶりに読書記録を書くことができる。実は本を読み終えること自体が、久しぶりであった。三月頃から本業の激務にかまけて、本を読む(読み終える)ことができていなかった。新型コロナウイルス感染症にかかって、少し仕事から離れたことで、本に触れる時間を作ることができた。病気になってよかったことである。

●読んだこと

 本書は表題作の「信仰」をはじめとし、「生存」「土脉潤起」「彼らの惑星へ帰っていくこと」「カルチャーショック」「気持ちよさという罪」「書かなかった小説」「最後の展覧会」の八篇を収録した短編集である。

 「彼らの惑星へ帰っていくこと」と[気持ちよさという罪]の二篇は多分エッセイである。

 「信仰」は、大人になって再会した中学校時代の同級生たち(主人公の永岡ミキが他人のことを"私より少し若く見える三十代の女性"と表現する箇所があるため、私(永岡ミキ)と石毛、斉川は三十代〜四十代なのだろう)が、カルトを始める計画を立てる短編小説。

 他五篇は現代、近未来、未来を舞台としたSF短編小説である。「生存」では全人類が六十五歳時点での生存率でランク分けされている。「土脉潤起」では野生に返り野人となった姉が登場し、「カルチャーショック」は皆が同じ見た目に手術され、味のしない食べ物を食べる均一という街から、カルチャーショックという街へやってきた父子の話。「書かなかった小説」には主人公夏子のクローンが四体出てきて、五人で共同生活を送る。そして「最後の展覧会」では、ニンゲンの絶滅したチキューで、カルカッタ星人のKとロボットによるテンランカイが開催される。

 どの作品もいまの常識や流行を極端な形で描いている。極端にすることで、いま常識とされていることのおかしさが際立ってくる。ほとんどの作品は読後感が、少なくとも良くはない。けれど繰り返し読み返して、考えなければと思う作品が多い。

●考えたこと

 実は一番印象的なのは小説ではなくエッセイ、「気持ちよさという罪」である。"個性"や"多様性"について書かれている。変わっている人をそのまま受け入れることとキャラクター化してラベリングすることの違い、その二つの違いを見誤ったことによる村田の罪が記されている。"どうか、もっと私がついていけないくらい、私があまりの気持ち悪さに吐き気を催すくらい、世界の多様化が進んでいきますように。"、そう書かれている。

 私の目の届く範囲でも多様性に向けた動きがあることを知っている。世界は様々な属性や考えを持った人々を受け入れようとしている。しかしその多くは、しばしばラベリングを伴う。同性愛者は同性愛者として、障害者は障害者として名前をつける、それ故に受け入れることができる。しかし、同じ障害者であっても障害の種類や程度は異なっており、障害者ではないが障害者と同様の特徴を持った人もいる。私たちはそんな多様性を否定して、名前をつけて画一化することで、多様性に向かっている。偽りの多様化である。

 その点、村田は本当に多様化を進めたいのだろうなと思う。「土脉潤起」で姉が野人化した私はミカとユキコという大学時代のゼミ友達と三人で暮らしている。三人とも多分三十代前半頃? そして人工授精によって三人の子を持とうとしている。女性同士で、カップル(二人組)ですらなく三人で親になろうとしている。家族の新しい形である、と認識したがる私もまた、名前をつけたがっているのだろうな、と思う。三人のそうしたあり様を、家族として、あるいはいわゆる家族に近い何らかとして、ラベリングすることで、受け入れたくなる。でも三人と彼女らの子ども、彼らは彼らでしかない。無理に家族という言葉の意味を拡大する必要もなければ、新しく名付ける必要もないのだと思う。

 名付けの怖いところは、名付けが区切りだ、というところだと思う。この三人プラスアルファを、家族という概念を拡大して理解しようと、家族と名付けようとする。しかしこの三人は家族だとしても、他に目を向けてどうしても家族に含まれない範囲が出てきてしまう。つまり何人で何日以上一緒に生活したら家族なのかとか、一緒に生活していないと家族ではないのかとか、こぼれ落ちる可能性が出てきてしまう。そもそも家族という言葉のイメージすら、私はポジティブに捉えがちであるけれど、ネガティブなイメージを抱く方もいると思う。そうすると不特定の複数の人を家族と呼称すること自体で、嫌な思いをする人も出てくる。難しい。

 そんな状況を、つまり三人の女性が共同生活をして、ついには三人の子を持とうとしている状況を、私が新しい家族の形と認識したそれを、村田は小説の中でさらりと描いている。名付けをする必要はない。小説で描くことで、自然にその状況を伝えることができる。かようにして村田は世界の多様化を進めているのか、そんなことを考えた。

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