哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

絵画等のこと⑲ サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展 @千葉市美術館

■ 絵画等のこと⑲

 
 

 

 2024年3月3日まで千葉市美術館で開催中の「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」を拝見、同時開催の「武士と絵画 ―宮本武蔵から渡辺崋山、浦上玉堂まで―」および常設展「千葉市美術館コレクション選 生誕140年 石井林響とその周辺 他」も堪能したので感想を記す。

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● サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展 のこと

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 鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし・細田栄之とも、1756~1829年)が主に残したのは、女性を描いた美人画であり私の関心からは外れているので、正直なところそこまでグッと来る展示ではなかった。ただ、キャプションが丁寧で、一つ一つ解説を読みながら作品を眺めていると、新たに知ることも多く勉強になる。

 鳥文斎栄之は1756年、武士(旗本)の家に生まれ、十代将軍家治の身の回りの世話をする小納戸役の、絵具方に任ぜられる。絵を御用絵師・狩野栄川院典信(かのうえいせんいんみちのぶ)に学んだとのこと。典信が、九代家重、十代家治に仕えた田沼意次に近かったと解説されており、また後に松平定信寛政の改革において行われた出版規制にふれ、栄之が浮世絵から肉筆に軸を移していること等、学生時代に何やら聞いたような名前が出てくるのが面白い。

 なお出版規制に関連して、栄之をデビューさせた版元は西村屋与八であったそうで、1787年頃に家業であった芝居小屋の絵看板に軸足を移した鳥居清長に代えて推していたそうなのだけれど、一方栄之のライバルであった喜多川歌麿を重用した版元が蔦屋重三郎(2025年NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺 ~」(主演:横浜流星)にて取り上げられる予定)であったそうで、重三郎はこの寛政の改革において処罰を受けている。栄之が奢侈を忌避し質素倹約を旨とした寛政の改革に素直に従ったのは、武士の出身であるという彼のルーツによる(武士の身分を離れていてもお上に逆らうのは憚られたという)ものではないか、との考察もあった。また栄之はそのルーツ故か高い身分の消費者に好まれたそうで、自身の購買層を意識してか、紅嫌い(べにぎらい)という赤を使わない作品を多く残しており、紫を基調とした雅なものが多いとか。

 では以下に私が関心を持った作品等を記す。

 典信の嫡男で狩野養川院惟信(かのうようせんいんこれのぶ)が描いた「范蠡西施図・山水図」にある西施(せいし)は紀元前5世紀頃の中国・春秋時代の美女だそうで、越国より呉国王夫差(ふさ)に贈られ、夫差は彼女に夢中になり、国が弱体化して滅ぼされたとか。この策略をめぐらしたのが越国の范蠡(はんれい)だそうで、後に范蠡は西施を連れて越国を脱出したとも言われているそう。中国のこうした伝説はしばしば画題に取り上げられるが、知らないことだらけである。

 栄之の「風俗五節句 上巳」には雛人形の五人囃子のうち、太鼓が描かれているが、五人囃子は天明年間に江戸で考案されたものとのこと。雛人形というと昔からああいうものと思っていたが、時代によって変化しているのだなというのを知った。五人囃子というと能楽地謡と四拍子(笛(能管)・小鼓・大鼓・太鼓)と認識していたが、調べてみると京都を中心に雅楽の楽器を演奏する楽師が飾られることもあるそう(参考:ひな祭り 文化普及協會 公式ホームページ )。

 展示では能楽に関連した絵画も多く拝見した。栄之「あふむ」は能の「鸚鵡小町」を描いた作品。常設展「鳥文斎栄之とその時代」では歌川豊国「そうしあらい小町」や北尾政美(鍬形蕙斎)「汐汲」といった謡曲関連の作品も出ている。また「生誕140年 石井林響とその周辺」では、特集されている石井林響(土気本郷町(現在の千葉市緑区)出身、1884~1930年)による「寒山拾得」があった。しばしばこうして画題になる寒山、拾得だが、ともに古い時代の中国のおかしなお坊さんというのは存じていたけれど、それ以上を憶えておらず、改めて調べた。二人とも天台山国清寺の豊干(ぶかん)禅師の弟子で、拾得は寺に拾われたので拾得でしばしば箒とともに描かれ、寒山は寺の近くの寒山の洞窟に住んだので寒山でしばしば経巻と描かれる。そしてこのトリオが登場する、「豊干」という能(宝生流廃曲)がかつてあったのだ、ということを知った(参考:豊干(ぶかん)とは? 意味や使い方 - コトバンク )。

 同じ林響は「鍾馗」も描いていて、疱瘡除けの神様として知られており(科挙(中国の高級官僚登用試験)に落第して自害したが、後に唐の六代皇帝玄宗の夢に現れてマラリアから救ったため、神格化されたらしい)、こちらも能「鐘馗」に取り上げられている人物である。私としては勇ましい立ち姿で描かれるイメージだったのだけれど、獅子? に乗っていてあれ? と思い調べたところ、しばしば獅子に乗った姿で描かれるよう。ただ、いわれはよくわからず……。林響が描く鍾馗も、獅子も(、ついでに「虎図」の虎も)、ふわふわしていて可愛らしい。

 あとは駆け足で。林響を慕って千葉に移住した田岡春径の「稲毛の松林」は、拙宅から近く、興味深かった。栄之の「恵比寿講」では商家で毎年10月20日(地域によって違いあり)に行われる恵比寿講について知ったし、「二美人図」では𠮷原の芸者に対する辰巳芸者という呼称も知った(深川の芸者のことで江戸の辰巳(東南)の方角の意だそうだが、この場合の江戸とはどこのことを指すのだろう? 江戸城だとすると深川は南東というより真東に近い気がして不明である)。「貴人春画巻」では義経の初恋の人という浄瑠璃姫のことを初めて知った。義経というと静御前しか知らなかった……。酒井抱一「白鷺図」では稲架(はさ・はざ)という呼称を知った。ウマイル:海北友松「翎毛禽獣図」(猿・馬・鷹の絵で、猿は見覚えがあった)、狩野伊川院栄信「遊馬図」。

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