哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

俊寛のこと

俊寛のこと

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●鹿ケ谷の陰謀のこと

 皆さんは、鹿ケ谷の陰謀を知っているだろうか。中学や高校の歴史の時間に、名前だけは聞いたことがあるのではないだろうか。1177年、打倒平家、平清盛を目論む後白河法皇の一派が、鹿ケ谷の山荘で謀議を行ったことが露見し、関係者が処分された事件のことである。これに関わっていた真言宗の僧、俊寛僧都藤原成経、平康頼らとともに、鬼界ヶ島に配流となる。鬼界ヶ島については諸説あるようだが、鹿児島県の薩摩硫黄島等と言われている。

 この後、平清盛高倉天皇中宮徳子の安産を祈願するための恩赦として、翌1178年に舟を差し向ける。その舟で運ばれてきた赦免状には、成経、康頼の名前のみ記されており、俊寛は都へ戻ることがかなわなかった。1179年、わざわざ訪ねてきた弟子有王に看取られて、俊寛は食を断ち自害したとのこと、そんなようなことが『平家物語』には記されているようである。

●能『俊寛世阿弥

 能の『俊寛』においては、この『平家物語』に描かれたことが、かなり忠実に舞台化されているようである。自分だけが取り残されるという俊寛の、驚きや悲しみの気持ち、舟に乗せてくれとすがりつく様が、表現されているらしい。らしいというのは、私も舞台を見たわけではなく、あらすじを読んだだけなのでよく分からないのだけれど、そういうことらしい。

 『平家物語』に記載されたことがどこまで真実かわからないのだけれど、それが事実とすると、事実というのは残酷である。想像の中で人はいくらでも残酷になれるのだけれど、そんな想像、妄想がどれだけ積み重なってもかなわないほど、事実として、そんな南方の孤島に一人取り残された、それももとは華やかな都にいた男が、という歴史があるというのは、胸を打つものがあると思うし、それを素直に表現しようとしている能というのは、われわれの感情を余計なものを切り取って、エッセンスを上手く抜き出した芸能であると思うのだ。

 

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●歌舞伎『平家女護島』近松門左衛門

 上記の『平家物語』『俊寛』を元に作られた歌舞伎が『平家女護島』である。俊寛ら三人が鬼界ヶ島に流されているのは同じであるが、すでに三年が経過しているらしい。らしい、というのは例によって、私は舞台を見ていないので、あらすじを読んだだけである。

 さて、この話ではまず、成経と島の海女、千鳥の結婚が描かれる。そのうえで、史実同様に舟が来て、赦免状には俊寛の名前だけがない。俊寛に対して、使いの妹尾は、お前清盛から嫌われてるけぇ、許されてへんで、と告げる。ここから歌舞伎はどんどんふざけるのだ。もう一人の使いが登場し、別個で平重盛から、俊寛の赦免状をもらってあると言い、晴れて俊寛も都に帰れるようになってしまう。ところがである。今度は成経の妻、千鳥を舟に乗せるわけにはいかない、という話になる。追い打ちをかけるように、妹尾は俊寛に向かい、清盛に言われて、お前の妻を殺したで、みたいなことを言う。挙句に俊寛は、それなら都に戻る意味がないと、妹尾を殺害し、今の殺人の罪で自分は島に残るから、千鳥を乗船させるようにと言う。意味不明である。挙句に島に残された俊寛が孤独感から叫び狂うところで、幕となる、らしい……。

●歌舞伎に見る過剰性と現代人の刺激に対する不感症

 このように、歌舞伎はすぐ、やりすぎてしまうきらいがある。本来であれば、十分、俊寛が置き去りにされるという驚き、悲しみ、孤独感だけで、人が感じ入るのには十分なはずである。ところが、歌舞伎はそこに結婚の喜びであったり、それゆえの絶望、怒り、殺害というアクション性、ドラマ性、妹尾への憎しみ等、滅多やたらに付け加えてしまう。これに江戸の人々の、閾値の高さ(感度の低さ)を感じるのは私だけではないだろう。江戸だけではない、現代もそれは同じである。五感をできるだけ刺激するエンターテイメントが持て囃される傾向にある。例えば、3Dの映像に、座面が動く映画、本来であれば音と平面映像だけで満足であったものが、立体になり、動きまでをも求め、人間の刺激への欲望はとどまることを知らない。

 その流れに乗り続けると、やがて人間は何も感じなくなるのではないだろうか。そんな不安が、ふと私の胸をよぎる。詩の一節に感じ入っていた人々が、派手派手しい轟音を聞かなければ、リズムを感じられなくなる、その傾向はどんどんと強まっている。今こそ、江戸以来の不感症傾向を脱して、もっと素朴な、感情の揺れ動きに、目を向けてみてはどうだろう。能はその些細な、しかし感情を動かすエッセンスに気づかせてくれる、きっかけづくりになることであろう。私は、そういう能の美しさに、きちんと目を向けられる人間でありたいなと、そう思う次第である。

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