■映画等のこと⑫「犬王」
この記事は Lotus cafe のアイスチャイティーを飲みながら書きました。
映画「犬王」を拝見したので、感想を記す。※ ネタバレを含みます。
本作は古川日出男による『平家物語 犬王の巻』を原作とした劇場アニメーションである。本作に先駆けて同じく古川日出男が翻訳した『平家物語』を原作とするTVアニメ「平家物語」(フジテレビ・監督:山田尚子、脚本:吉田玲子、主演:悠木碧)が放映されていた。そちらは静かな印象の作品であったため、同じテイストを想像していたところ、全く作調が異なるものであったため驚いた。
本作は監督を湯浅政明(TVアニメ『映像研には手を出すな!』監督・シリーズ構成 等)、脚本を野木亜紀子(TVドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』脚本 等)、キャラクター原案を松本大洋(漫画『鉄コン筋クリート』等)がつとめ、また主演の犬王をアヴちゃん(女王蜂)が、友魚を森山未來がつとめた。いずれも個性豊かな面々だと思う。
能と狂言を総称して能楽と呼び始めたのは明治以降のことである。それ以前(江戸時代まで)は猿楽(申楽)と呼ばれていた。能楽(当時の猿楽)を大成させた(それまでの様々な芸能を踏まえて、現代まで演じ続けられている能楽を形作った)のは室町時代(三代将軍足利義満の頃)に活躍した世阿弥(1363?~1443?)だそうである。本作でも父観阿弥(1333~1384)とともに舞台に立つ若き日の世阿弥(当時の呼称は藤若)が登場するが、大和猿楽の観世座に属した彼らと人気を二分したとされる猿楽師が、近江猿楽の比叡座に属した犬王道阿弥(?~1413)、本作の主人公である。
本作では古い面(能面)と犬王の父との契約による呪いで異形の姿(顔のパーツの配置がぐちゃぐちゃだったり、腕が異様に長かったり)として生まれ落ちた犬王が、一つ芸を極めるごとに人間らしい姿を手に入れていくという設定(故に多くのシーンで犬王は、瓢箪の面や能面で顔を隠している)。まさか史実の犬王まで異形であったわけではあるまい。
その相方が壇ノ浦出身で盲目の琵琶法師の友魚。本作では二人が出会って大衆の支持を得ていく様子を、ロックスターが階段を駆け上るかのように描いており、二人によって演じられる舞台はさながらロックミュージカルのようである。能楽(猿楽)で使用される楽器は、笛・小鼓・大鼓・太鼓であり、現代の能楽の演目で琵琶の演奏が入ることはない、はずなのだけれどかつてどこかにそうした(琵琶を入れた)演奏があったのか、それは知らない。ともあれ友魚や彼が結成した友有座はさながらロックバンドのようであり、というか弾いているのは琵琶なのに、鳴っているのはエレキギターやベースの音のような気がするだし、犬王の謡も何だかロックソングのようだし、もう実際に犬王がどんな舞台をやっていたかではなくニュアンスが伝われば良いや、ということなのであろう(というか犬王がどんな舞台をやっていたかわからないというのも事実なのだけれど……)。拝見したのが《歌詞字幕付》版とのことで、きっとガチの能楽の謡が出てくるから字幕が付くのかとビビって損した……。
こんなの能楽(猿楽)じゃない、と否定するのは簡単である。しかし、ここまで現代のエンタメに寄せないと、もはや世間から関心を持ってもらえないのだ、ということを能楽のみならず、現代日本の伝統芸能界は受け止めるべきなのだ。
そうそう、奇抜な演出の話ばかりに囚われて、物語に触れそびれていた。琵琶法師が語る『平家物語』と観世座による「猿楽」が大成されていく時代、『平家物語』に漏れてしまった平家の落人たちの恨みつらみを曲に仕立てて上演する(、これもまた歴史の波に消えていく)犬王と友魚という構成が本作の主題である。正当な歴史物語として残されていくのは、常に多数派であり勝者の物語である。しかし描かれていない物語は必ずあり、描かれたから真実であるとは決して言えないのだと感じさせる、良い作品でありました。
●犬王とは何者か?
さて、史実の犬王道阿弥とはいかなる人物であったのだろうか。
「能・世阿弥|文化デジタルライブラリー」を見ると世阿弥のライバルの一人であり、観阿弥の死後、義満から最も高い評価を得た猿楽師として犬王があげられている。義満の法名「道義」から1字を与えられ「道阿弥」と名乗ったそう。また優美な芸風でも知られ、世阿弥が犬王の得意芸であった天女舞を大和猿楽に取り入れたことが記されている。
ところで大和猿楽とは何であろうか。当時、大きな猿楽の座は、近江(滋賀県)を中心に活動した近江猿楽と、大和(奈良県)を中心に活躍した大和猿楽があった。元来、猿楽の座とは「翁」と呼ばれる神事を執り行うことを許された長老を中心としたものであり、大和には結崎座・外山座・坂戸座・円満井座の四座があったが、次第に芸能としての「能」を演じるグループが枝分かれし、演能の際の中心的な役者の名前をとって、観世座・宝生座・金剛座・金春座と変化していくのである。ところで現代の能楽において能の主役を演じるシテ方は、観世流・宝生流・金剛流・金春流と、江戸時代に金剛座より派生した喜多流の五流儀であるため、全て大和猿楽の系統である。
ただし現在、能楽というととかく幽玄であると形容されるが、この幽玄第一主義といえる芸風は元々、近江猿楽の特徴であったそうである(『国立能楽堂』第395号 平成28年7月[巻頭随筆] 犬王道阿弥をご存じですか/黒田正子)。物真似を主体とする写実主義であった大和猿楽に対して、犬王は高度な芸術性を持ち、幽玄の境地であったとか。観阿弥は近江猿楽の長所である幽玄を取り入れながら大衆的な面を守り、巧みに調和させる名手であったらしい。
映画においては、型にはまった観阿弥・世阿弥に対して、大衆を巻き込んで自由な表現をする犬王、という描かれ方。しかしその犬王は映画の最終盤、ある出来事から天女の舞を舞うようになる。そう、この現代の犬王や近江猿楽への評価と逆行するかのような本作での犬王の描かれ方は、本作が正史から漏れて忘れ去られた平家の亡霊たちの物語を拾う犬王を描きつつも、語られなかった犬王の真実の姿を妄想する作品でもあるからなのだろう。
映画では犬王について曲を作ったが残っていない、という説明がされているが、実は曲を作ったのかさえも定かではないそう(「犬王」とは何者か?アニメ監修を担当した研究者と能楽師に聞いてみた | 和樂web 日本文化の入り口マガジン)。演じた記録は6曲あるそうで、その内散佚せずに現代に伝わっている曲は「葵上」のみだそうである(『国立能楽堂』第74号 平成元年10月 特集・世阿弥以前(中) : 犬王と井阿弥 : 美と詩情の先達/西野春雄)。犬王没後の近江猿楽は急速に衰亡したとのことで、もはや妄想するしかないのである。