哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2023年1月の徒然なること

■2023年1月の徒然なること


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 先日、仕事で館山に行った。同じ千葉県に住んでいながら、初めての訪問であった。上司からは南国だから泳げると言われていたが、この冬一番の寒波、よもやそんなはずもなく、とはいえ用務先の方にも海の彼方に沈む夕日と遥かに臨む富士を勧めていただき、帰り際に拝見に行った。

 美しかった。

 自分より遥かに大きな富士、夕日、海を前にし、寄せては返す波の音を聞いていると、魂が洗われる気がした。

 あくまでも、気がしただけである。

能楽どうでしょう2.01「2023年1月15日(日)金春会定期能 @国立能楽堂」のこと


 金春会定期能は千駄ヶ谷にある国立能楽堂で催される。12時30分〜17時30分頃まで通常能三番と狂言一番を上演する、結構なボリューム感の公演だ。
 2023年初春のこちらの会の私のお目当ては、本田布由樹さんによる能「頼政」。シテ(主役)の布由樹さん演じる源頼政は平安末期の武士。1156年の保元の乱、1159年の平治の乱といずれも勝者の側におり、平家政権の中、源氏でありながら重用され、1178年に従三位に取り上げられた。しかし平家の専横が目に余るようになった中、1180年以仁王(高倉宮)とともに挙兵、しかし目論見が露見して宇治平等院の戦いに敗れて、自害する。

 能では旅僧の前に、頼政の亡霊が現れ、自身の最期の様子を見せる。太刀と扇両方を構えての舞は大変見ごたえがあり、また謡の中身に合わせて扇を置く所作、太刀を落す所作があり、私のような素人でも詞章(台本)と併せてみていると何をしているシーンかわかりやすく、大変面白い。

 頼政にはキメラのような生き物・鵺(頭は猿、手足は虎、尻尾は蛇という妖怪で、鳴く声がトラツグミ(鵺)に似ているそう)を退治したという伝説がある。頼政の高祖父(祖父の祖父)には酒呑童子や土蜘蛛退治をした伝説があり、能「大江山」、「土蜘蛛」にも取り上げられているが、怪物退治に縁のある家系なのだろうか。
 とまれ、この鵺退治を描いた能が「鵺」なのだけれど、ところでつい昨年の6月、同じ金春会で布由樹さんが演じたのがこの「鵺」であった。「鵺」のシテ(主役)であり討ち取られる鵺は、晩年の不遇な頼政を表しているという解釈もあるとか、いずれにせよ、つい昨年頼政に討ち取られた怪物を演じ、わずか半年で討ち取った側の最期を「頼政」にて演じたおシテの狙い、心境はいかがなものであったのか、想像が膨らむところである。

能楽どうでしょう2.02「2023年1月28日(土)金春会円満井会第三部 @矢来能楽堂」のこと


矢来能楽堂(東京都新宿区)

 そして凝りもせず、二週間後は金春円満井会である。こちらは同じ金春流の会でも若手が中心となって出演する。三部制で拝見したのは第三部。

 狂言「呼聲」は仕事をサボっている太郎冠者(家来・大藏彌太郎)の家を主(大藏基誠)と次郎冠者(大藏章照)が訪れるが、太郎冠者は隣家の人を装い居留守を使う、という設定。次郎冠者の呼びかけに留守を預かる隣人の振りをした太郎冠者が応えた時点で、あれは太郎冠者の声と主・次郎冠者には気づかれていながらその後、主の作り声に同じく作り声で応える太郎冠者、次郎冠者の平家節に同じく平家節で応える太郎冠者、主の小唄節に同じく小唄節で応える太郎冠者と、双方楽しくなってきて意味不明な点が、観者としてはとてつもなく楽しい。
 演者自身も本当に楽しんでいるように見える、とにかく明るい舞台であった。
 あー、楽しかった。

 能は「黒塚」。現在の福島県二本松市の安達ヶ原に棲んだという鬼にまつわる伝説を扱っている。旅の僧(山伏)である阿闍梨祐慶(森常好)が安達ヶ原であるあばら家に一泊の宿を乞うが、ここに住む貧しい女(安達裕香)は実は鬼で……、という話。
 安達さんの師匠である本田光洋さんと次男の布由樹さんが後見として、歌舞伎でいう黒衣的な役割を果たすのだけれど、冒頭、布に覆われたセット(作リ物)が布由樹さんと大塚龍一郎さんの手により運び込まれる。途中でこの布がはぎとられると、中は竹で組まれたでかいケージのような形になっていて、中に安達さんが入っている。
 この作リ物はこの貧しい女が住んでいるあばら家であり、一行が家の中に入った後は女の閨となる。作リ物自体に何か変更を加えるわけではなく、想像力で補いながら観ていく必要があるのである。

 こちらも面白かった。曲の後半は閨を覗かれ怒り狂った鬼女を旅僧(山伏)が数珠をすり念仏(真言?)を唱えて調伏するバトルシーンとなるのだけれど、赤髪を振り乱して杖を振るい、荒々しく舞う鬼女は大変にかっこよいのである。
 とはいえ、この曲でも覗くなと言われた閨を旅僧の部下である能力(小梶直人)が覗いたことで、女は鬼女に変ずる。また、安達ヶ原の鬼の伝説には一人の女性が鬼に変じてしまった悲しい言い伝えがいくつかある。験力によって抑え込まれる鬼の感情にも思いを巡らせさせるのが、能という芸能である。

■2023年のこと

 2023年が始まって、およそ一か月がたった。今年はどんな年にしたいだろうか。

 以前にも書いた通り昨年は仕事が大変に多忙な年であり、今年も継続して忙しいと思う。仕事の中でやりたいことはいくつかある。それはよい。
 仕事は私の人生の中の一つでありながら、今プライベートとも密接にかかわりあっている、と思う。というのも、仕事で知り合った方と友達として付き合ったりだとか、プライベートで知り合った人と、一緒に仕事をしたりだとか、そんな連携が発生しているからだ。しかしそのことをもって、休日まで仕事にまつわる何かをして、プライベートも含めた人生が充実している、と言ってよいのだろうか? というのは不安が残る。
 とはいえ、ぐっちゃぐっちゃにこんがらがった、仕事とプライベートをいまさら丁寧に腑分けすることは、困難なように思われるため、引き続き仕事の中でうまいこと楽しい、自分のやりたいことに引き付けられそうな分野を見つけながら、力を入れて取り組んでいきたい。その中で、多忙・長時間労働の原因は、そうした様々な関心事に首を突っ込みながら働いているのか遊んでいるのかわからない日常を過ごす中で、何でもかんでも全力で挑んでしまう点だと思っている。どこで手を抜けばいいのか、いかに仕事から離れたリフレッシュの時間を作るのか、こうしたところが今年の課題だと思っている。

 そう、リフレッシュである。昨年の私に不足していたのは、リフレッシュの時間である。こうして文章をしたためていると、そうしたことに気が付くことができる。
 ちなみにこの文章を書くことは、当初リフレッシュとして初めて、今は週に一度の義務・仕事のような印象となっている。とはいえ、そんな義務の中にこうしてリフレッシュのような効用を見出している。昨年、仇櫻堂(アマチュア 書店業・出版業・文筆業)note の定期更新をストップした。不定期で投稿したくなったら投稿すればいいや、ということである。このブログについても、そうしてしまえば楽なのかもしれない。たぶん私はロクに更新しなくなるだろう。
 それでも、こうして毎週文章をしたためる時間がいかに私のプライベートのリフレッシュタイムを圧迫しようとも、今のところやめるつもりはない。分量を減らす、とかはしている。けど毎週何らかを発信することは私にとって苦行でありながら多分リフレッシュになっており、きっと何らかのスキルアップになっている。だから続けていきたく思っている。

 それはそうと、リフレッシュの時間の創出である。新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言中に毎日のようにジョギングをしていたのだけれど、そうした身体を動かす、ということ。乗馬やヨガをするとか、あるいは整体やマッサージに行く、とか。こうして書いていくと私の場合リフレッシュというとまず、身体の疲労回復が念頭に浮かぶようである。
 そして書いていて思ったけれど、例年恒例の「●●年の読書のこと」と題した前年読んだ本の総括を昨年分は出せていない。理由は、読んでいないからである。2022年に私が読んだ本の冊数は21冊である。決して少なくはないけれど、例年の私からすると半分くらいである。読書は心のリフレッシュのため、知識のインプットのため、大変有益であるので、必ず昨年よりも機会を増やすように、これは2023年の私に厳命する。

 2023年について、そんなとりとめのないことを考えている。

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