哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2020年12月の読書のこと「心の傷を癒すということ 神戸365日」

gaga.ne.jp

 NHK総合にて2020年1月に放送されたドラマ「心の傷を癒すということ」、劇場版が2021年1月29日に公開されるとのこと。本項では同作の原案となった書籍につき、以下の通り印象に残った文章を引用しながら、感想を述べる。

■心の傷を癒すということ(安克昌/作品社)のこと

――“よかったけど、もうしわけない”――これは私自身の実感でもあった。家が倒壊をまぬがれて、ほっとした思いとともに、後ろめたさがあった。彼の家は、周囲一帯を焼け野原にした火事の中で、かろうじて焼け残ったのである。彼は、私以上に強烈に、「家が焼け残ったことや生き残ったことへの後ろめたさ」に気分をあおられたのだろう。(p53)
――「しかたなかったんです。私も逃げるのが精一杯だったんです。助けてあげられなかった。……それで自分を責めてしまうんです。今も耳元で“助けて、助けて”という声がするんです。……私も死んでしまえばよかった」。(p71)
 怖いことだと思う。自分もきっと、同じ状況になったら逃げるだろう。どんなに助けを求める人がいても、まず自分の身の安全を優先させるだろうと思う。そして勇敢に周囲の人を助けようと動いた人であっても、どこまでやっても満足できないのではないか、とも思う。
 一人助けてももう一人の、二人助けても三人目の、助けを求める叫び声が聞こえる。震災の危険の中で、全ての人を助けるのは困難である。きっとどこまで行っても、生き残った以上はこの後悔は残るのだろうと思う。
 この後悔はどうやっても慰められない気がする。怖いなと思う。震災、災害の怖さである。

――その中には今まで治療を受けたことのない人たちもいた。彼らは行動の奇妙さを残しながらも、家族のサポートによって地域社会の中では生きていくことができたのだった。こういう人たちの存在は、私を敬虔な気持ちにする。精神病を「医学」によって治療しつくそうという考えは、つくづく傲慢であると感じるのである。そういう「世に棲む患者」(中井久夫)が地域社会から投げ出され、避難所で適応できずにいる姿を見るのは痛ましかった。地震さえなければ、彼らは自分の世界を持ちながら、社会との折り合いをつけて暮らし続けることができたのに……。(p82)
 この点、私はとても納得できた。私の職場にも本当にルーティンの仕事しかできない人がいる。彼は、でも、その決まりきった仕事はきちんとやることができる。ある時、人事異動で彼の上司が変わって、毎日決まりきった、楽な仕事しかしない彼に、あれもこれもと要求した。彼は、もともと精神を患っていたのだが、より悪化して仕事に来れなくなってしまった。こういう人は多いと思う。その環境でだから生きられているのに、環境を変えたら……。震災はそういった配慮が必要な人々にも等しく環境の変化を求めてくる。

――本来、住民から感謝されるはずの救助隊が罵声を受けた。それは隊員たちのせいではなく、ひとえに災害の規模が大きすぎたせいである。だが、初動の時点において、隊員も住民もそのような事情を知る由もなかった。隊員たちは、被災者の気持ちが理解できるだけに、無力感を抱かずにはいられなかったのだろう。(p108)
 これも、こうして本で、文章として読むと、なんで救助隊にあたるんだと思うことであるが、実際にその場で自分が被害を受けたら、きっと救助が遅い、足りないと文句を言うのだろうな、と思う。普段の生活ですら私は、忙しい時とそうでないときとで、周囲の人への優しさが違うと思う(それは少し反省すべき点かもしれない。)。きっと、震災の極限状態になったら、その比ではない。頑張ってくれているはずの人に対しても、いや同じ被災者同士ではぶつかれない以上その分まで、当たってしまうかもしれない、と思う。

――今回の震災で「復興」という言葉が使われていますが、その言葉は嫌いです。私たちみたいな者にとっては、壊れたものは壊れたものとしてそのまま残るんです。心の傷は残ったままなんです。壊れたものや亡くした人を蘇らせることなんてできない。やり直すのではなく、また新しいものを作っていこうとしなければいけないんだと思います。(前掲「黒い虹」)(p126)
 「復興」という言葉は、後の東日本大震災でも使われる。来年2021年3月は震災から丸10年となる。安易な「復興」は避けるべきなのだろうと思うが、きっと色々なシーンで「復興」という言葉を目にする年になるだろうな、と思う。「復興」をお題目として、広告塔にしたい人がたくさんいるだろうな、と。東京オリンピックパラリンピックも復興五輪等と言われているし。被災者が本当は何を望んでいるのか、きちんと耳を傾ける気持ちが必要だろう。

――避難所内は学校の先生たちやボランティア、一部の住民が一生懸命清掃していたが、それでも煙草の吸いがらや空き缶が落ちていた。酒瓶やビール缶も混じっていた。避妊具が落ちていたという話も聞いた。平時ならおおっぴらに学校で見かけるはずのないものが、いくらでも目についた。すでに学校の面影はなく、以前からずっと避難所であったかのような錯覚すらおぼえた。(p150)
――学校の先生たちの本音は、「一刻も早く学校を元の状態にして、本来の仕事に戻りたい」ということだったろう。だが、被災者たちの行き場ができるまで、学校から追い立てることができないこともよくわかっていた。(p151)
 これも改めてこう聞かされると、なるほどなあと思う。学校の先生・生徒にとって、避難所となる学校こそが日常の生活場所である。だからその日常を取り戻すためには、非日常である被災者を追い出さなければならない。そんなことは無理であるが。難しい。

――私たちはその後もう一軒、Sさんという患者さんの住まいを訪問した。彼女のいる仮設住宅は島の最南端のブロックにあった。その周囲は工事現場のような殺風景きわまりないところだった。海からの強い風が私たちを吹き飛ばそうとした。(p179)
――街路樹すらない薄暗く広がる荒野に、仮設住宅は整然と建ち並んでいる。そしてその住宅群の向こうには、遊園地の巨大な観覧車がライトアップされていた。一九八〇年に開催されたポートピア博覧会のさいに作られた遊園地である。それは日本が、そして神戸市が、バブル経済に突入する前夜のことだった。寒々とした暗がりの中の仮設住宅と、きらびやかな大観覧車の対比に私は身震いした。私たちは黙って歩いていた。(p180)
――仮設住宅にすむお年寄りたちは、震災前には下町の喫茶店で新聞を読み、お店で立ち話をし、病院の待合室に集まり、老人会などでゲートボールや囲碁をしていたのである。町には住宅だけはなく、いろいろなお店や人間関係がある。自然発生的にたまり場ができあがっている。それらは都市に暮らす人たちが利用できる資源(リソース)である。だが仮設住宅の周囲にはそういうリソースがほとんどない。そのリソースの乏しさを私たちは「殺風景」と感じたのだ。リソースのない暮らしはうるおいがなく、精神的にも物理的にもひじょうに努力を要するものになる。この「殺風景な」住宅群のなかで、どのようにしてうるおいを取り戻せばいいのか。(p181)
 うるおい、という単語に尽きるのだと思う。人間は物質的に満たされていてもそれでは足りない(もっとも、被災して仮設住宅に移り住んだ彼らは物質的にも決して満たされて等、いなかったと思うけれど)。人がいて、物があって、安心できる場所があって、その上で人と人とが交流することで、満たされていく。
 その意味では、昨今のコロナ禍は我々からうるおいをこそ奪い取ったようにも思われる。ほんの些細な友人や家族との、対面での会話の喜びを、奪っていった。もちろん、そんな中でZOOM等のオンラインで会話をしたりイベントを開催する、別の形のうるおいが開発され、広まっているのは、良いことではある。コロナ以前は良かったと嘆くことは簡単だが、今できる形でうるおいを取り戻す心がけは、大切である。

 以上が、私が本書を読んで印象に残った文章と、それに対する簡単なコメントである。本書は震災(災害)時の心の傷を具体例に引いているが、その限定された内容だけを描いているだけではない。心の傷に関係なく震災(災害)全般のことを知ることのできる本でもあるし、平時の心の傷についても知ることのできる本である。

 本書ではこのような心の反応は、その人の精神力が弱いからではなく、人間としてごくあたりまえのことである。それは「異常な状況に対する正常な反応」である。(p65)”と述べている通り、心の病というのは、気持ちの問題では決してない。

 私自身、精神科に通院しているし、コロナでの緊急事態宣言解除の直後、在宅勤務から職場に復帰した時には、ずいぶん心身に不調が出て、憂鬱感を感じたものである。それは気の持ちようなのではなく、久々のフルタイムの仕事かつコロナへの感染対策という慣れない状況に対して、身体が過剰反応をしただけであり、やる気がない、働く気がないというのとは違う。

 こうして過去に阪神淡路大震災において、こういう経験をした方々がいたこと、そしてこういう医療活動をしてこう感じた一人の医師がいたこと、というドキュメントとして、知っておいてとても役に立つ、良書であった。ここに描かれた光景、知識は必ず、その後の東日本大震災を考えるうえでも有用であるし、現在も続くコロナ禍に当てはめることができる部分も多いだろう。

 そういうわけでこの本、オススメである。

■ちょっと関連

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【新増補版(本文のページ数等は旧版による)】

新増補版 心の傷を癒すということ: 大災害と心のケア

新増補版 心の傷を癒すということ: 大災害と心のケア

  • 作者:克昌, 安
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本
 

NHK総合のドラマ】

「心の傷を癒すということ」

「心の傷を癒すということ」

  • メディア: Prime Video