哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

ウィルス性腸炎のこと

 

■ウィルス性腸炎のこと

 今週はウィルス性腸炎で三日ほど臥せっていた。闘病中に感じたことをここに記す。

 私は何故か、ウィルス性腸炎にかかりやすい体質なのかもしれない。以前にかかったのは、一昨年の冬のことなので、一年半前だ。お腹が弱いのかしらんが、自分のたるんだ腹を見て考えた、こんなに腹が出ている奴が、お腹が弱くてどうする? そんなことでよいのか? いや、よくない。私はまず思った、痩せなければならない。さもなければ、このままのうのうとお腹が弱い人を名乗り続けて良いはずがない。世間様に顔向けできる、胸を張ってお腹が弱いことを主張ができるように、痩せよう。そのためには、腹八分目を心掛けるしかあるまい、そう心に決めた。

 ところで肉体と精神とは密接に関連しあっている。この場合、私のこの出っ張ったお腹は私に対して、太っているな、という表象を与える。確かにそうだろう。しかし、それは太っているお腹という、視覚的問題である。あるいは、電車に乗って座席に座るときに、なんか隣の人とぶつかるな、という感触。そう、これは触覚によるものである。しかし、ここで考えていただきたい。太っている、それ自体は、私の思念に如何なる影響を与えるであろうか。例えば、私が、私以外のものが存在しない無の空間にいるとして、その時太っている私と、痩せている私が同時に、同じ場所に存在しえたとしたら、私は何を思うであろうか。太っている私は、痩せたいと思うであろうか。否、私は痩せうるであろう自分と現在の自分との比較の中でそれを思うであろうはずなので、あらゆるものがなく、比較対象なき世界においては、そのようなことは思わないであろう。そう、この二人の私の間には、実はそんなに大きな違いはないのである。ただ体積が違う、二つの思念体は、そう違うことは思わないのではないだろうか。しかし、体型が違うということは、おそらく基礎代謝が違うであろうから、世界に対して求める餌の量が違う。考えることが違うとしたら、その辺が原因となるであろう。とはいえ、そこに大きな違いがあるかと言えば、うーん、そんなに考えられない。つまりここで私が考えたのは、肉体が精神を規定すると言っても、それは肉体それ自体ではなく、肉体差から生じる環境因が、我々の思念に差異を与えるのではないか、と感じる。

 それはさておき、ウィルス性腸炎の主な症状は、吐き気、下痢、腹痛、高熱等である。幸いにして、私は嘔吐であったり、強烈な腹下しはなかったが、とにかく気持ちが悪く食欲がなかったため、病院に点滴を受けに行くなどしたのだが、そんな感じで食べられなかったために、体力が落ち、ふらふらとしてしまう印象が強かった。そして頭痛と、頭重感。頭が重い。こんなに重くて何が詰まっているのだ、というくらい重かった。頭を枕に乗っけていることが辛い。起き上がることなんてもちろんできない。起き上がると、ふらふらして気持ち悪いのだ。横になっていても、私の頭はただひたすらに、下への走行性を発揮する。頭にだけ引力が強めに働いているかのように引っ張られ、枕を弾き飛ばし、敷布団にぺったりとくっつきたがる。困ったものである。

 とはいえ、病は去った。治る、というのは大変に気持ちの良いものである。一昨日、地にのめりこもうと欲していた頭が、昨日はすとんと枕の上に鎮座してくれ、今日は起き上がっても、きちんと首の上に乗っかっていてくれる、そんな印象である。そんなわけで、今苦しんでいる人々にも、いずれ首が座る時期が来るのだと思うし、その時がみんなに来れば良いな、と思うのである。

 

 

 

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