哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

ソーシャルネットワークのこと

 
■あらいさんはじつざいしうるか

 

スマホはいいけど少し怖いんです

だって日本中の人が

掌しか見ていない

 

 上記はさだまさしさんのガラパゴス携帯電話の歌の一節である。これは現代の日本で生活している多くの人が感じる違和感ではないかと思う。私も含め、朝晩の通勤電車には、熱心にスマホタブレットを覗き込んでいる人が多くいる。もちろん、寝ている、本を読んでいる人も多くいるが、やはりちょっとした隙間時間が出来たり、混んでいる電車で座れなかった時など、ついスマホを起動してしまうことが多いな、というのが私個人の傾向である。

 さて、人は何故スマホを見てしまうのだろうか。例えば、ソーシャルゲーム等の、スマホ向けゲームを楽しんでいる人も多いことだろう。いや、楽しいのかどうかはよくわからない。実際、ただの作業や習慣となっている可能性もあり、本当に自分がそのゲームをやりたいのかわからないこともあるだろうが、これは別に良いのかな、と思う。本を読んでいたり、携帯用ゲーム機をやっている人と変わらない、自分の趣味をやっているようなものであるのだから。

 ちなみに全然関係ないが、相も変わらず、私は近所のお洒落な珈琲ショップでこの原稿を書いているが、この店は洗い場の戸が開くと、どぶの様な臭いやバクテリア臭がする。洗い担当の新井さんは大層難儀するかと思うが、珈琲を飲みに来ている荒井さんだって、臭いのは嫌なので、どうにかしてほしいと思う。ちなみに今日はそれに加えて、はんだを燃やしたような臭いがどこからかしている。大丈夫か、この店。

 より重篤なのは、私も含めてそうなのだが、ついついSNSを眺めてしまう人々ではないだろうか。もちろん違法性としては、ついついスマホカメラでスカートの中を盗撮をしてしまう勢が上回るのであろうが、日常に潜む問題としては、ついSNSを眺めることの方が上回っているかもしれない。

 私自身、自分がSNSを積極的に使ってみる前は、そんな人々のことを気持ち悪いと思っていた。自分の日常を美しく脚色し、他者に見せびらかしたい人々だと。本当に何かの美しさを伝えたいのであれば、自分の大切な相手に、話すなり、手紙やメールを書けばよい、SNSにつぶやきや写真を投げることは、SNSという架空の世界、作られた人格に自分の感動を伝え、形だけの称賛を手にする、実体を伴わないものなのではないかと。

 しかし実際には、その架空の世界の中には、ちゃんと実体を伴った人間がいて、彼ら自身のきちんとした判断力を持って、いいねを押したり、コメントを残したりするわけである。だから、SNSへの発信というのは、SNSという世界への逃避ではなくて、リアルの世界での手紙やメールと変わらない、他者とのコミュニケーションの延長と考えることができる。もちろん、手紙やメールは原則として一対一のものであって、SNSは一対多、多対多となるものであるから、例えば雑誌の読者交流欄であったり、ラジオへの葉書投稿が形としては近いのかな、と感じる。

 ところで、さらに考えを進めて、彼らは本当に実在するのだろうか。SNSには確かに、私の投稿に反応してくれる洗井さんがいる。しかし、私は彼に会ったことはなく、彼が本当にプロフィールや発言の通り、珈琲ショップで冷凍パスタを温めて、上に大葉を乗せる仕事をしている洗井さんなのか、本当のところはわからないのである。つまり彼らはきちんと考える力をもって、私に対して交流を図ってくるが、実は私と彼らの間には、何らかの欺瞞のベールが存在するのではないか、という疑いは依然晴れないのである。

 しかし、ここでさらに考え続けるに、SNSの中には私のリアルの知り合いである、有井さんも存在し、ときおり私の投稿に反応してくれているのである。彼は確かに実在する人間であり、SNSの中での振る舞いも、断然彼のようである。つまり、やはりSNSの世界をうごめく彼らは、実在する。はたしてそうだろうか。彼の彼たるところはそんなに簡単に証明されるものであろうか。SNSさんには私の交友関係を調べ上げる力があるのかもしれない。そして私の隣人のふりをして、私に近づいたのかもしれない。ひょっとするとSNSさんと有井さんはグルになって、私にSNSでこんな対応をしたよということを共有しあって、現実世界で私と有井さんが交流をする際に、有井さんはさもそれらしいことを言って、私にSNSの中の有井さんが真実の有井さんであると、信じ込ませようとしてくるかもしれない。

 しかしそこまで考えると、今度は現実世界の有井さんの存在さえも危うくなってくる。有井さんは、私の前では有井さんとしてふるまっているが、その本質は新居さんであり、世界の皆は彼が新居さんであることを知っている。新居さんは有井さんが絶対にしないようなことをする。私だけが騙されていて、彼のことを有井さんと認識しているのかもしれない。

 ところで人が新居さんである、ということはどういうことであろう。世界の皆は、新居さんが有井さんでなくて新居さんであるとどうして断言できるのであろうか。いや、むしろ彼は世界の皆が新居さんであると断言しているからこそ、新居さんであって有井さんではないのだ。新居さんとして実在することは、新居さんと命名することなのだ。

 そんなことを考えていると、腐った水の臭いが、私を混沌とした思考の世界から、お洒落な珈琲ショップに引き戻した。洗い担当の新井さんが洗い場の戸を開けたのだ。

 いけないいけない、SNSについて考えていると、こんな不毛な思考に陥るのである。そうであるならば、いっそソシャゲでもやって、レベル上げの作業に一日を費やしたり、課金してガチャを回したりしている方がよほど健全である。近所のカフェドクリエが臭くて、私は幸せである。

 

ガラパゴス携帯電話の歌

ガラパゴス携帯電話の歌