哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

歩きアイスのこと

■言いたいことがあるんだ!

 つい今しがたのこと、JR中央総武線各駅停車の下りに乗っているときのことである。

 私は先頭車両に乗っていて、その車両の進行方向左手側の扉の近く、運転席と客席の仕切りの壁に寄りかかっている若い男がいた。仮に彼をジョナサンとしよう。そして、その男と扉を挟んだ反対側、客席のシートの仕切り壁に寄りかかっている、年配の男がいた。仮に彼をジェイコブとする。そして私は彼らと反対、進行方向右手側の客席のシートに座って、膝の上に緑のリュックサックを抱えていた。仮に私のことをジョンとしよう。

 ジョナサンはスマホでクライアントとカンバセーションをしていた。イベントのウェブ掲載に関する話のようであった。それが一駅も続いたころだろうか、ジェイコブが声を荒げて、それにクレームをつけた。ジェイコブの気持ちはもっともだが、もう少し冷静に言えばいいのにと、ジョンは思った。ジョナサンはクライアントに、電車の中なのでコールバックする旨を詫びて、通話を切り、ジェイコブに向かってすみません、といった。ジェイコブは興奮冷めやらぬ様子で、常識だろ、と怒鳴った。

 しかし、そばにいたジェシーはジェイコブが麒麟淡麗生を飲んでいることを見逃さなかった。常識人は電車でアルコール飲まねーよ、クズが、ジーンは心の中でこの世の中に憤っていた。

 

■ながらなんちゃらの現在

 このように、人は何か一つのことをしながら、別のことをしたがるものである。現代人は日々忙しく時間がないのか、おとなしく黙って電車に乗っていることはできないのである。

 以前の記事にも書いたが、電車に乗ってついついスマホを見る、という人は多いはずだ。移動しながらSNSをやる、ゲームをやる、音楽を聴く、あるいは本を読む、スクワットをする、ダンスする、電話をする、麒麟淡麗生を飲む。

 電車の中で、立って、あるいは座ってこれらを行う分には、まあ良いだろう。しかし、それらのアクティビティを、歩きながら、あるいはなんらかの乗り物を運転しながら行うことは、しばしば問題とされている。

 例えば歩きスマホ、これは人込みの中でスマホの画面を見ながら歩いていて、激突して危ない、迷惑である、ということであろう。私も歩きスマホはしないようにしているが、時折、地図を調べながら歩いていたりと、気を付けなければ、と思うことがある。

 それはそうと、皆さんは二宮尊徳(金次郎)を知っているだろうか。薪を背負いながら、本を読んで勉強したという、偉い農政家である。しかし現代の歩きスマホ咎められて、江戸後期の歩き読書は称賛されるというのは、いかがなものだろう。まさかスマホを眺めながら歩いている人が、みんながみんな、ポケモンを捕まえようとしているわけでもあるまい、ひょっとしたらスマホを眺めながら、金次郎と同じように勉学に励んでいるかもしれないのである。それをただ歩きスマホだと言うだけで咎めだてしてよいのだろうか。良いんだろうな、たぶん。

 

philosophie.hatenablog.com

 
■歩きながら何をすべきか

 では、歩きながら、何をすべきか、という質問は奇妙なものである。何もしなければいい、多分これが一番の正解である。それでも人は何かをしたくなるらしい。歩き始めの幼子や、加齢等で足腰が弱った人を別にすれば、多くの人にとり、歩くことは、何の注意もせずにできることである。歩いている、という状態は、意識的に周囲の眺めや音を楽しんだり、右、左の足の動きを感じたりしないと、何もしていないのと同じ状態になるのである。おそらく、そんな何もしていないのと同じ状態はたまらないから、人は歩くに加えて何かをしたくなるのではないだろうか。

 そしてその時に歩きながらすべきこととして、今もっとも推奨されているのは音楽を聴くことのようである。誰が推奨しているのかは知らない。しかし、歩きながら、イヤホンから流れる曲に耳を澄ましている人は多いはずである。いや、私が認識しているのは、歩きながらイヤホンをしている人が多い、ということだけなので、実は彼らは志ん朝や小さんに耳を傾けているのかもしれないが、とりあえずその可能性は今は検討しないでおく。

 さて当然、音楽を聴くことだって、決して褒められたことではないだろう。実際、今のイヤホンは性能が良く、周囲の音が聞こえなくなる、それだけ音楽に集中できる、というものが多い。そういった状態で、歩いたり、あまつさえ自転車に乗ったりすると、周囲の気配を感じ取れなくなる。最近は自動車もエンジン音が静かなものが多いし、他人の接近や頭上のカラスの排便、耳をすませば聞こえるものが聞こえなくなるというのは、事実であり、その意味で音楽を聴くことはリスキーな行為であると言える。

 とはいえ、その危険は歩きスマホやその他、視覚を犠牲にするよりも、よほど安全と言える。聴覚に少しくらい枷をはめても、視覚で補える面が多いのである。

 

■歩きアイスのこと

f:id:crescendo-bulk78:20181103174547j:plain

 さて、では私はどうであろうか。皆さんと同じように、歩きながら音楽を聴くか、というと、それはほとんどしない。先日、ポールマッカートニーのコンサートを聴きに東京ドームへ行ってきた。それはとても素晴らしいコンサートで、特にヘイジュードでは観客みんなで合唱して、会場が一つになるのがすごく良いのだが、それはそうと、私はコンサートに先立ち、ポールの新譜を手に入れて聴こうと思った。スマホに音楽を入れてイヤホンをつなぎ、家から最寄り駅までの通勤途上、音楽を聴こうという試みは、一日か二日でとん挫した。

 昔、十年ほど前の学生時代はできていた音楽を聴きながら歩くことが、どうにもこうにも気持ち悪い。視覚と聴覚が、別のものを知覚している。そもそも町は、特に会社に向かう際の朝の町は、音楽を聴かずとも、面白い音であふれている。姿の見えない鳥が鳴いている、子供たちがはしゃぎ笑い、おじいさんが叫んでいる。若者たちは踊り狂い、木々はさんざめき、犬が歌う。そんな世界が提供してくれる音楽をシャットアウトしてまで聴く価値のある音楽はそうはない。それに仮に誰か知り合いに会って急に声をかけられたとき、そんなことは滅多にないのだが、相手に気づけなかったり、もたもたとイヤホンを外して会話をするというのも、クールじゃないな、と思うのだ。

 そんなわけで、私は歩きながら音楽は滅多に聞かない。だからと言って、歩きながら何らのアクティビティもしないか、というと、そうでもない。

 私の趣味の一つは、アイスを食べることである。仕事の疲れやストレスをアイスで解消する。時には職場でアイスを食べることもある。何なら、私の職場の冷凍庫には、仲よく係のみんなで食べるアイスが常備されていることがある。

f:id:crescendo-bulk78:20181103174627j:plain

 そういうわけで、私は歩いているとき、何もしていないのと同じ状態のとき、聴覚を犠牲にすることはない。聴覚は日常の奏でる音楽に耳を傾けながら、日々の危険、忍びよる交通事故や変質者の足跡に耳を澄ませている。また、嗅覚も犠牲にするのはリスキーであろう。彼もまた、異臭がしていないかに気を配り、私がガス爆発の現場に突入していないか、意識を張り巡らしてくれている。

 しかし味覚は、これは犠牲にしても何ら危険はない。歩いていて、口に急に変な味が広がることは、99.9%ないのだから。というか、もしそんなことが起こったら、それこそまともに視覚や聴覚が機能していないか、何かの病気かのどちらかだ。

 ともかく、そんな合理的な判断のもと、私は味覚を犠牲として余暇に差し出し、仕事帰りの最寄り駅から自宅までの道すがら、歩きアイスを食べるのである。

 断固として、駅に据え置かれたセブンティーンアイスの誘惑に負けたわけでも、駅前のドラックストアの策略に躍らせれているわけでもない。きわめて近代的、理論的な明晰さを持って、私は歩きながらアイスを食す。

 たとえその行く末が、肥満の袋小路であったとしても構うものか、私はあらゆる万難を排して結果としてアイスを食べるのだと、固く信じながら。