哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

『能・狂言の誕生』のこと

■『能・狂言の誕生』のこと

 諏訪春雄さんによる『能・狂言の誕生』を読み終わらなかったので、その間に感じたことを記す。

 

能・狂言の誕生

能・狂言の誕生

 

 

●最近の動向

 そもそも、本書を読み終わらなかった背景には私の最近の動向が、密接に関係している。なんだか忙しかったのである。それで、ハードカバーの本書を持ち歩き、それはもはやダンベルを持ち歩くような苦行であったのだが、それでも私は出勤の際も、休みの日も本書を連れ歩いた。電車に乗れば、必ずカバンから本書を取り出して、カバンを網棚の上に乗せ、本書を手に抱えて着席し、しかるべきのちには睡眠に落ちた。かくして、私の右腕の筋肉は、この本を図書館から借り出す以前との比較で、10%以上、肥大化したものと思われる。

 

●ヒグチユウコ展CIRCUS @世田谷文学館 のこと

 そもそも、何がそんなに忙しかったのか。仕事の日に疲れ切って、電車で寝てしまい、本書を読むひまがないのは、それは致し方がないであろう。しかし、休日はというと、例えば先日は、こんなところに出かけていた。

 京王線の蘆花公園駅から歩いて5分ほどのところにある、世田谷文学館にて、画家のヒグチユウコさんの作品展が開かれている。ここでは、彼女の画業の多くを見ることができる。素晴らしい展示である。その展示は素晴らしすぎ、世田谷文学館のグッズ売り場には、ヒグチユウコさんのオリジナル商品を求める人々が大挙して訪れ、文学館始まって以来の無法状態となり果て、ヒグチユウコさんのファンや、転売で利ザヤを稼がんとする悪徳商人たちが、ええじゃないかと叫びながら踊り狂う異常事態に至り、世田谷文学館事務員の遠藤紗矢さんは、お客のいない閑古鳥の鳴く文学館で、うとうとしながら受付業務をしたくて、公的な文学館の任期付き事務員に応募したのに話が違うと、秋田の実家に逃げ帰り、都会の香り漂わす彼女の帰省は秋田の農村に衝撃を与え、男たちは悉く遠藤さんに色目を使い、里の女たちは彼女を妬み遠藤家にたいまつをかかげて押し入り、対する遠藤さんは己が平穏を守らんと欲し、奉行所に訴え出て村を二分する大騒動を巻き起こし、その争いが周辺地域にも飛び火し、やがては信濃川を境に、日本を二分する天下分け目の合戦が起こってもおかしくないほど素晴らしかったわけだが、まあ、今のところこういったことは起きていないので、そこまでは素晴らしくないのかもしれない。

 ともかく、この展示はCIRCUSの名の通り、まるでサーカスのように色々なキャラクターが登場して、様々な世界を見せてくれる。ヒグチユウコさんの頭にある世界を、不思議の国のアリスよろしく、探検するような感じで、本当に面白かった。

 恥ずかしながら、私は彼女の仕事のほとんどを知らずに過ごしていたのだが、猫の顔に、手が蛇で、足が蛸の、ギュスターヴ君という、可愛らしいキャラクターと出会い、大変幸せな気持ちになった。

 ここでは彼女の絵本の原画を見ながら、そのあらすじを知ることができる。猫のぬいぐるみのキャラクターが活躍する物語のシリーズは、大変に私の興味を惹いた。本当にまあ、素敵な世界に生きている人であると、感心するものである。

 

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higuchiyuko-circus.jp

 

●『能・狂言の誕生』のこと

 さて、そんなこんなで読み終わらなかった本書の話である。そもそも、その成立過程が歴史的に判明している歌舞伎や文楽と異なり、能・狂言はその誕生の歴史がはっきりしないのだそうである。それは、これまでの能・狂言の誕生の研究が、国内の史料を中心におこなわれていたため、なのだそうである。というのも、鎖国を行っていた江戸時代に誕生、発展した、歌舞伎や文楽と異なり、能楽は奈良、平安時代から流入し続けた大陸文化を受容する中でそのルーツが生まれ、室町時代世阿弥がそれを大成させたものであるため、国内の流れだけをつかんでも、その誕生に迫ることはできないのだという。そういった観点から、著者は本書の中で、中国や朝鮮半島の芸能、追儺等と、日本の能・狂言以前の芸能、追儺等とを見比べつつ、また日本や海外の仮面を用いた芸能の例も出しつつ、能・狂言の誕生に迫っていく……、のであるが、約300ページある本書のうち、私が181ページまで読んだところで、千葉市図書館さんが本書を返してほしそうにこちらを見ているので、返さなければならなくなったわけである。これはひとえに、ヒグチユウコさんの展示が素晴らしいせいであると、私はこう結論付けるものである。

 

 ●『能・狂言の誕生』気になったもの、あれこれ

 そういうわけで、読み終わっておらず、きちんと内容を消化しきっていない本の感想を、体系的に記すことは大いに無理があるため、今回は気になったワードを私自身の読書メモ程度に、気になったワードを拾っていきたいと思う。

 

  • 中国道教:伊勢神道(渡会神道)と吉田神道(卜部(吉田)兼倶)が理論武装のために頼る。伊勢は五行説等を援用。吉田は仏を垂迹とし、吉田神道こそ唯一絶対神と主張。
  • 方相氏:方は四方、相は見るの意、とも。黄金四つ目の仮面をかぶり、悪鬼を追う。現在は中国、台湾では葬式の先導役。日本では、吉田神社平安神宮などの節分祭に侲子役のこどもたちを伴って、四つ目の仮面をつけて登場。
  • 摩多羅神:芸能とかかわりのある神であるが、猿楽の神とは言い切れない。また鎮座の場所も、後戸に限定されない。
  • 鬼来迎:千葉県光町虫生日蓮宗寺院弘済寺に伝わる盆行事、目連即地蔵、目連即観音の信仰をそのままに演出した芸能。施餓鬼に演じられる地獄破りの宗教劇。亡者以外の全役柄が仮面をつける。中国福建省泉州市の打城戯そのまま。
  • 式内者糸井神社:翁の能面と、一束の葱(結崎ネブカ)が空中から落下。観世発祥之地と面塚。他流にも同様の伝説。大和猿楽各座が新しい仮面芸能を演じる際、仮面を異国から入手か。
  • 神霊劇の能と現世劇の狂言の分業:中国の古代祭祀においては尸を立てる。素朴な劇の発生。尸は神霊界と人間界の媒介者の役割を果たす。祭祀(祝)と尸の役割を一人の巫覡が演じる単独の兼務型が本来、分業型はいわば派生型。台湾ではタンキーという男性シャーマンが活躍。シャーマニズムのポゼッション型とエクスタシー型の両者を兼ねる。日本では葬儀で死者に代わって弔意を受ける者が尸。目に見えない神霊の意思を具現化する者にさにわ(審神者)がいる。恐山のイタコ、それにゴミソやユタ等、単独型も日本の古代に存在。単独型→分業型が派生。祭司と巫覡が一体となり、前者がはやし、後者が神がかる、平安時代の祈祷師とよりましの祈祷行為の系譜。単独型→分業型→集団分業型。新旧は共存。能と狂言の分業の母胎。
  • 動く神:二つの祭場、後場(お旅所)での芸能・見物人、前場から後場へは神木で、神下ろしは二つの祭場で。動かぬ神(自然神)から動く神(繰り返す自然現象)へ変化、その際に意思を持つ人格神に変わった。シャーマニズムの二つのタイプ、シャーマンの霊魂が身体の外に出て、天・地下・他界に赴く脱魂(エクスタシー)型、もう一つは神や精霊がシャーマンの身体に入る憑霊(ポゼッション)型。それぞれ、動かない神と動く神に対応。自然が神々の本体→依代、神社、社殿が誕生。他界からの飛来と地域内常住の矛盾ゆえに、既存祭場でいったん迎神、新設されたお旅所へ移送、この複式構造が、能の複式夢幻能へ。
  • 大和四座:猿楽は被差別民であり、それを嫌った世阿弥が『風姿花伝』で神楽であり聖徳太子が後世のために神の扁を除いて申という字を残した、と述べ、申楽と記した。結崎座をはじめとして大和四座が中国からの渡来人であった秦河勝を祖先と主張、中国の楽戸の伝統を継承、翁猿楽専門で鬼能を得意とする。

 

 以上が、本書の中途までを読んでの、私の気になった点である。はっきり言って、書いている私が、本書の内容をきちんと理解できていないので、ただ単に本書の気になった点を抜書しただけとなっている。だから、きっとこれを読んでいる人も良くわからないと思う。私がこの本を感じたのは、自分自身のバージョンアップの必要性である。まず読んでいても、こうして一つ一つの単語が、新しい知識であり、思考がわき道に逸れすぎてしまうのである。そういうわけで、私は自分をアップデートし続けるために、能楽関連の読書を継続すべきと考えるものである。