哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

能楽どうでしょう003 能楽堂に行くことをオススメすること

能楽堂に行くことをオススメすること

 何度かブログでも書いてきたと思うけれど、私は能楽に関わる仕事をしていて、それで何となく出会う人々に、自分の勤め先の紹介とともに、能楽をオススメしている。
 能楽とは現存する世界最古の舞台芸術(より古い時代から行われているはずの、例えばギリシャ悲劇等はどこかで上演が途絶えてしまっている)であり、日本が世界に誇る伝統芸能である。
 能楽とは能と狂言の総称である。くれぐれも歌舞伎や文楽人形浄瑠璃)とは別物である。むしろ江戸時代に徳川幕府によって能楽武家の式楽とされた際に、能楽に触れることを禁じられた庶民が、能面を付けた人間の代わりに人形を使ってみたのが人形浄瑠璃文楽、メイクをした人間に演じさせたのが歌舞伎であるため、能楽の影響を受けて(能楽の真似をして)出てきた後発芸能が歌舞伎や文楽である。
 というのは能楽側の関係者から聞いた話なので、やや能楽の肩を持っている恐れはあるが、それでも概ねの認識としては間違っていない、と信じたい。

 さてそんな古い古いといわれる能楽であるが、いつ頃から演じられているのだろうか。一般的には室町時代観阿弥世阿弥父子が大成させた、との説明がなされる。大成という言葉のチョイスも、その意味するところも謎である。つまり観阿弥世阿弥が作ったわけではないのだそうだ。
 奈良時代平安時代を通して、中国から輸入されてきた芸能や、神社で行われてきた神事、あるいは日本の各地で豊作を祈願し、あるいは感謝して行われていたお祭りなどから申楽(猿楽)が形作られており、それらを整理して現在の能楽能楽という呼称は明治以降のものである)としてまとめ上げたのが、世阿弥である、ということだそうだ。
 ところで現在、公益社団法人 能楽協会(プロの能楽師の組合)に登録された能楽師は1,063人、そのうち能で主役を演じるシテ方能楽師は690人、中でも最大の流儀である観世流シテ方は348人でありシテ方全体の半分ほどを占める。参考に宝生流143人、喜多流46人、金春流94人、金剛流59人である。そして観世流こそが、この観阿弥世阿弥の伝統を受け継ぎ、流祖としている。
 ただしそれ故に観世流こそが最古の歴史を誇るのだろう、という判断は誤りである。上にあげたシテ方五流の中で最も長い歴史を自称しているのは金春流で、流祖を聖徳太子と同時代の渡来人である秦河勝としている。その他の流儀も、江戸時代に成立した喜多流以外の四流は、結崎座、外山座、円満井座、坂戸座といった大和猿楽(同時期に近江猿楽も人気を誇っており、その代表的な役者が犬王であるが、後に衰退した)の座を組んで活躍しており、観阿弥世阿弥父子も結崎座のメンバーとして出てきたのだから、その歴史の起点をどこに置くのか、正解はない(結果として現観世宗家が二十六世(二十六代目)なのに対して、金春宗家は八十一世を名乗っている)。

 さてそんな能楽について、書きたかったのはこんな細かな歴史ではなくて、別のことである。先日お友達と話をしていて、「あなたにとって端的に能楽の魅力を説明してください」と質問をされた。答えに窮したことは、言うまでもない。
 そのお友達ともお話していたのだけれど、能で演じられる曲のストーリーは、恋の悩みや戦などでの殺生で成仏できなかった人々が亡霊として現れるという、ワンパターンなものである。その表現は分かりにくい古語であり、かつ古典文学や和歌の引用が多発するため、むやみに難解なものである。それ故に事前に話を調べてから見ないとチンプンカンプンになる。そんなややこしい芸能を結末を事前に知ったうえで観て、面白いのか?
 面白いわけがなかろう、と、私個人の考えではそう思う。しかし、仕事で能楽に触れることになって勉強していくうちに、少しずつその魅力も見えてきたように思うし、このところは仕事を離れて、プライベートの時間でも能楽堂に足を運んでいる。それは能楽を眺めているとすっきりとするからだ。リラックスできるからだ(故にお友達には、すっきりできるところ、と答えた)。

 能楽堂という空間は特殊な緊張感をはらんでいる。多くの(いわゆる)演劇で使用される、額縁の形をしたプロセニアムの舞台と異なり、張り出した舞台に何故か柱と屋根までついている。その能舞台の正面から左側を囲むように(左右非対称な)客席がある。不思議な空間である。
 そうした厳かで神聖な能舞台を眺めていると、やはり古式めかしい儀式のような(というか、古式めかしい儀式なのだけれど)演目が始まる。鼓の心地よいリズムや謡の声に誘われて、うとうとしてくる。寝てもいいのだと言ってくださる能楽師も多いが、それでも客として出かけている以上、寝ないで舞台を観たい。でも眠い。
 そんな感じで、よくわからん己との闘いを続けながら、何とか目の前の舞台に描かれた物語を想像しようと頭を働かせていると、やっぱり(うとうとして)眠ってしまって、でも目が覚めてみると非常に脳がすっきりとしていて、全身がリラックスしている。そんなことが多い。

 能楽の魅力を端的に言い表すのは難しい。私自身、その魅力に最近ようやく気がつき始めたところである。でも能楽にこれまで触れていない方には、とにかく一度、能楽堂に行ってみることをオススメする。話の中身や、能面・能装束の美しさ、能楽師の身体や声が表現する舞や謡、それら何もわからなくても、身体に響いてくる何かがあると思う。それですっきりしてリラックスできると思う。そうでなかったら、ごめんなさい。

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