哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

寄席ば良いのに001「第三回文菊千景」@アートスペース兜座

■寄席ば良いのに001「第三回文菊千景」@アートスペース兜座

 

 お友達が今年の春から、落語家の古今亭文菊師匠(以下、敬称略)の公演のプロデュースを始めた。2022年4月、8月ときて、今回の12月が第三回目である。今回は「湯屋番」と「芝浜」。特に「芝浜」が良かった。感想を記す。

 古今亭文菊は1979年生まれ、東京都出身。学習院大学卒業の翌2002年に二代目古今亭圓菊(師匠は先々代圓菊である古今亭志ん生、当代圓菊(三代目)は息子)に入門、2012年に28人抜きで真打昇進。

 文菊の演じ分けの上手さや情景描写の妙はネットなどでも話題となっている。まだ40代前半と若い落語家でありながら、口座姿に色気や円熟味がある。大きな声を出してどんどんボケをかましていき、爆笑をとっていくタイプではないので、退屈に感じる方もいるかもしれない。今回は初めての落語鑑賞の方に勧めたい落語会として企画されているので、そうしたところもざっくばらんに、マクラで話してくださる。寄席では多くの落語家が出てくるので、そうした場所で自分の好みの噺であったり、落語家を見つけてほしいと。私自身、どちらかというと新作落語にも積極的で、どんどんどんどん聞き手を引っ張っていく落語家の噺を聴くことが多いのだけれど、そんな私でも文菊の静かなしっとりした口演の上手さが群を抜いていることは理解できる。

 「芝浜」はある冬の朝、酒浸りになった魚屋の亭主とその妻を描く。3ヶ月ほど仕事を休んだ亭主は、妻に叩き出されて久々に仕事に出る。妻が時間を間違えて早く着きすぎたので、夜明け前の芝の浜で煙草をのんでいると、古い財布が落ちているのを見つけて持ち帰る。中身は42両、遊んで暮らせると喜んだ亭主は仲間を呼んでどんちゃん騒ぎ、あくる朝目覚めると、前日同様に妻に起こされ仕事へ行けと言われる。42両なんて知らない、夢でも見たんだろう情けないと言われて、落ちぶれた自分を見つめ直し、性根を切り替えて仕事に励むようになり3年後の大晦日、これまでの棒手振りから抜け出して店を構え、奉公人まで抱えた夫婦。そこでの妻の打ち明け話、そして下げの「また夢になるといけない」は屈指の聞かせどころで、年末の縁起物としてよく耳にする噺ですが、やはり演じ手によって違うのが落語。

 文菊が語ればあっという間に狭い会場が真冬の海に早変わりして、冷たい風が吹きすさぶ。出かける亭主を見送る妻が、火打ち石を鳴らしたりと、非常に描写細かく、リアルに楽しむことができる。素晴らしい口演であった。

 ところでこの亭主、3年の間に一生懸命働いて大きく立身出世するわけだけれど、果たしてその程度で人間は生まれ変われるものだろうか? もちろん、この亭主はもともと魚屋として働いていた人が、身を持ち崩して復活したので、それ以前にも長い修行が有ったのだろうとは思うのだけれど、それでも3年で復活できるのはラッキーな気がする。とはいえ、人は心根一つで頑張れば変われる、落語はありがたいことも教えてくれる。そしてそんなシリアスな演技な中に、文菊が絶妙にくすぐりを入れて笑わせてくる。見事である、飽きない。

 一方「湯屋番」は噺自体がガンガン笑いを取りに行くような噺。親に勘当された若旦那が、番台に立ちたいばかりに銭湯への奉公を願い出て、空の女湯を覗きながら妄想をふくらませる噺。あほうである。しかし、愛すべきあほうである。

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